木下龍也さんの「愛された犬は来世で風となりあなたの日々を何度も撫でる」という短歌を知りました。
『あなたのための短歌集』という本をふとめくったまさにその頁にこの歌があり、その瞬間、まめ子の毛のふんわりがそっと首の後ろあたりを掠めていったのを感じました。
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先日11/29が、まめ子の九年目の命日でした。
九年の中で、おそらく細かな記憶は薄れつつあるのでしょうが、それでも大気中に混入した犬がふと撫でてくるような感覚はたしかに繰り返し訪れます。
特にまめ子がいなくなって初めての三月、訪れた春の気配の中に濃厚な「まめ感」を感じたときの、ぶわっという感じは忘れがたいです。
犬を亡くしたすべて人々の心のお守りになるような美しい歌であるなあと思いますが、もともと『あなたのための短歌集』は、求められたお題に応える形で特定の個人のために作られた歌を集めた本。この歌は、夏生さえりさんの「いつかやってくる犬との別れを思うと胸がつぶれそうになる、そんな私のお守りになるために」というリクエストに応えて作られた歌だそうです。さらに、その後、この短歌をもとにして絵本が作られていたことを知りました。絵はくまおり純さん。
この方の絵はときどきSNSで観ていまして、素敵な犬の絵であるなとずっと思っていました。京都の方でもあるらしく、絵を見ると、まめ子と散歩したそのへんの角々が、湿度を伴って思い出されます。
そしてまた、自分も犬と暮らしていたとき、毎日幸せであったけれど一方で毎日のように犬との別れを思っては恐れていたことを思い出します。犬は彼岸に移籍しそのことは大変大きなことではありますが、しかし、犬の此岸在籍時に感じていた幸福の記憶は今でも薄れることがなく犬の存在は(実体として失われたとしても)消えることはないのであるから心配することはない、と当時の自分に伝えたいと思います。
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風に犬を感じる一方で、「風にも星にも僕はならないよ」と歌う「立派な浮遊霊」(トモフスキー)も好きな歌。この部分は「千の風になって」へのアンサー(?)であると思われますが、たしかに自分自身は死んでも風という軽やかなものになれる気がしないな……。
先日、TRADの最終日にトモフを観たのでしたが、最終日の感慨もあいまって泣いてしまいました。トモフの歌って一見オモシロに見えて、われわれが死すべき存在であるということをどう受け止めるか……ということを歌い続けているから……。「立派な浮遊霊」は、生きているみんなのためにそこらへんをブラブラしつづける浮遊霊の歌。生きてる間の私たちは自分のことばかりだけど、もしそんな自我から解放されたら……って想像がはかどります。トモフの死後ソング(死後ソング!?)だと「作戦会議」も好き。次の星でも会えるように今のうちにだいたいの集合場所とか目印とか決めとこうぜ!って歌。聴くたびに、次の星があるとすればまめ子がいるのはどこであろうか、と想像します。
しかしそんな想像をするときにいつも浮かぶのは、再会するわれわれの姿ではなく、ひとり気ままにそこらへんをぽてぽて歩いては草の匂いを嗅いだり犬仲間と挨拶したりするまめ子の姿。現世では人間社会の事情により我が家という仮の住まいに籠めてしまったから、仮にアザーワールドがあるとすればそこでは気ままに過ごしてほしいしもう俺たちに飼われてくれなくていいよ、って気持ちがあります。犬と人の縁は、いっときのかりそめのものであるからこそ良いものなのでしょう。そんでそんな自由の犬を、立派な浮遊霊として見守る私。
それにしても、短歌とか、絵とか、音楽とか、そもそも死後の世界の想定とか、犬を亡くした人は結局人の作るもので救われたり心を慰められたりするのであるな、と思います。
犬逝去前後の日々のことは当時にブログに記録しており、読み返すと今でもつらくはありますが、思い出すために時々読み返すことがあります。するとその中でもいろんな音楽の歌詞であるとか文学作品であるとかお好み焼き屋の皿であるとかに慰められていて、普段はファッキン人類めと思っているけれど、有難う人間の作ったものたちよ、という気持ちになります。(当時の犬記事は以下です。mourning work の参考になればとも思います。犬存命時の犬ラブ記事も「犬愛」カテゴリから辿れますのでよろしければお読みください)
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木下龍也さんの短歌から、なんか「風」つながりであっちこっち話が飛ぶ感じになったので風ついでにもうひとつ温風の思い出を。
まめ子は、主張をしない犬ではありましたが、ひそかに常に家で最も快適な場所を知っていました。夏には最も風が通る土間にぺったりと伏し、冬には温風の通る「くだ」の前を好んでいました。
この「くだ」は、ヒーターから炬燵に温風を通すために或る年から導入したものです。たしか、暖房より電気代がかからないとかなんとかで、ホームセンターで買ってきたのでした。これを導入するや、まめ子は「くだ」の傍にはりつくようになり、しまいには、くだに寄り添いくだに顎を乗せくだを占領するようになりました。これをされると、くだの位置が少しずつ逸れて温風はまめ子に独占され、われわれ人間はまったく温かさの恩恵を受けることができず、空虚な炬燵の中で足先が冷えてゆく一方なのでありました。