しっぽよ、永遠に


このブログにはできるだけ楽しいことばかり書きたいと思い、詳しく書いていませんでしたが、ひと月ばかり体調を崩し気味であった愛犬・まめ子を、先月の末に見送りました。

体調を崩していたといっても、ほんとうに寝込んだのは2、3日ばかり。ぎりぎりまでおさんぽをしていた頑丈な犬でした。
獣医さんの話では、いわゆる老衰だそうです。自然なことだったと思います。
ちょうど休日であった日曜日に、家族と看取ることができました。
生前、直接に、またはインターネット越しにかわいがっていただいた皆様、ほんとうにありがとうございます。
まめ子は永遠です。



以下は、2007年に、「mixi」に書いた、まめ子のしっぽについての文章です。


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まめ子は、しっぽ扱いがどうも変だ。
なにか、邪魔っけなものがついていて、それを持て余しているといった風情だ。

それは、まめ子の、犬として無愛想な性質に起因しているものだと思っていた。
たいてい、人間が犬のしっぽの存在を意識するのは、ご主人様の帰宅時などに、飼い犬がわうわう出迎えにやってきて、ちぎれんばかりにふりふりとしっぽを振るようなときであろう。

しかし、まめ子にそんなときはない。

まめ子は無愛想なので、あまりしっぽを振らない。うちに来て1年くらいは、ほぼしっぽを振らなかった。最近になってようやく振るようになったが、たいていは、「ゆーら、ゆーら」という、わが家では「微ふり」と呼ばれている振り方である。


ところが、最近、よそのいぬいぬを見ていて気づいた新事実がある。
それは、まめ子のしっぽは、どうもふつうの犬より短いのではないか、ということだ。
そのへんをさんぽさせられているよそのいぬいぬは、皆、しっぽを上方に向けてくるんと巻いて収納している。
しかし、まめ子が、しっぽをくるんと巻く姿など見たことがない。
かといってブルドッグほどの短さでもないまめ子のしっぽは、どうも、犬的には、かなり中途半端な長さであるようだ。
その中途半端さが、まめ子のしっぽ扱いを、不自然なものに見せているのでないか。

それにしても、中途半端なわたしのところに中途半端なまめ子が、よくぞやってきたものである。
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そんなまめ子の、あんまり振らない、中途半端な短いしっぽですが、寝込むようになってからしばしばそれをぴこんと立てて、寝そべったままパタパタパタパタと振る、という動作が獲得されました。
飼い始めて10年目、逝去の間際になって初めて見られた動作でした。
あれは何だったのでしょう。何かを訴えていたのか、「まだ生きてるでー」というしるしだったのか、或いは単に何らかの生理的反応であったのか。


急激に食欲がなくなり病院に連れていったのがまだ先月の半ば。そのときに、「何も処置しなければ年内かもしれません」と言われたときが最も悲しいときだったので、それに比べれば、逝ってしまった日はまだ大丈夫でした。
私は、イヤなことやショックなことを聴くと、足もとがスッと体温を失うように冷えるのですが、その感覚が起こり、ああいよいよ来たんやな、と思いました。
もちろん、飼い始めたときからずっとそのときのことは意識していて、いつ来るのだろうな、どんなふうに来るのだろうな、と考えてきましたが、ああついに近い将来に失うんだな、と。
その後、獣医さんに言われた処置をしましたが、もう身体が受け付けず、魔法の食べ物・納豆(最大の好物で、まめ子はこれで一度復活しています)を拒否したときに、「ああ、これは年内どころではないな」と悟ったのでした。
そんな沈鬱な診察でしたが、父が「散歩にはついてくるんですけど……」と言ったときに診察台の上のまめ子が ピコン!としっぽを動かし、獣医さんに「あ、今、"さんぽ"という言葉に反応しましたね」 と言われたのが、唯一なごんだ瞬間でした。
思えば、まめ子によって、なごむ瞬間ばかりでした。



その病院から帰ってきた後に撮った写真です。




最後は寝てばかりいたので、スケッチしやすかったです。
まめ子の顔は描きづらいのですが、いくつか描きました。











今はとても悲しいですが、文学部的習性なのか文章を書いていると心が安らぐので、またぽつぽつと思い出話などを書きたいと思っております。
残されたしっぽのない者の、喪の作業にお付き合いいただければうれしいです。
思えばこのブログにもそもそも、こんなに犬の話を書くことになるとは思っていなかったのでした。

今は、ザ・ハイロウズの、好きな曲の歌詞の一節を思い出すなどしています。


 ♪ さようならが淋しくないなら 手放すときためらわないなら
 ♪ 会わないほうが すれ違うほうが
 ♪ 手に入れてしまわないほうが

 (「不死身の花」)