老犬看取り之記(最終回)


まめ子は、生きているときからほぼ私に関心がなかったので、「さわれる片想い」が「さわれない片想い」に移行しただけ、という感じもしなくもありません。犬を亡くした人がよく言う、「家に帰ったとき飛びついて迎えてくれないのが淋しい」「朝起こしにきてくれないのが淋しい」ということは皆無です。生きていたときからそんなことは一切しなかったからです……。
とはいえ、さわれるかさわれないか、目の前に現前するかしないか、という差異は決定的にでかいものである、とも思います。
ふわふわとした毛の手触りや、まめ子のお腹の下のほう(「乳だまり」と呼んでいた)のほよほよとした感触や、香ばしい匂いや、てってっ、という足音や、くぷくぷという寝言の声……記憶というものが時とともに薄れていくのは仕方のないことですが、できる限りそのまま覚えていたいな、忘れたくないな、という思いです。
そんな思いから、せっせとブログを書いたり写真をupしたりしてしまってるんでしょうなあ。



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さて前回は、家族と一緒に見送ることができた話を書きましたが、最後にふたりで過ごした日の思い出も書いておきたいと思います。(ふたりで過ごした日……なんかロマンチックな表現になってしまいますな。)


最後にふたりでぺったり過ごしたのは、逝ってしまう3日前でした。
家族は不在で、前述の通り熱を出した私だけが在宅であったので、一日まめ子を看ていることになったのでした。
まめ子はこの日から少し呼吸の仕方が変わっていました。これまでより、荒い呼吸になったようでした。母方祖父が亡くなる前、しばらくこんな呼吸が続いていたことを思い出しました。


まめ子は横たわり、時々しっぽをぱたぱたと振っていました。
私はその横で、その日からもうおさんぽに行かなくなったまめ子に、これまでのおさんぽの思い出や、まめ子の好きな場所や、他の犬の噂や、これまで会わせた私の友達などの話をし続けました。といってももちろん人間語なので、まめ子がどれだけ分かっていたかは不明ですが、人間語しか喋れないのでしょうがありません。言語の壁(??)を感じました。
病犬と二人きりだと、元来私が湿っぽい性質であるせいもあり、どうにも湿っぽくなってしまい、歌でも歌おうとすると、子供の頃に聞かされた子守歌が出てくるのが可笑しかったです。犬を子供と同一視しているつもりはなかったのですが、どこかでそんな意識があったのでしょうか。いや、これとちゃうやろ、なんかもうちょっと景気のええ歌や、と思い直し、「ジャングル・ジャミン」を歌ってみましたが、いや、これもちゃうやろ、明らかにちゃうやろ、と思うてやめました。

そや、と思いつき、人間の利器・スマートフォンで、元気だった頃のまめ子が吠えている動画を見せると、上体をむっくり起こし、きょろきょろと反応しておりました。
それから、見えてるんだか見えてないんだかわかりませんが、家族とのおさんぽやぐむり場面を撮った動画を見せ続けました。まめ子は、観てるみたいにみえました。






この日は一日家にいるので色々仕事をしよう、と思っていたのですが、こういうときはなんとも腰が落ち着かぬもので、まめ子の横でそんなふうに話しかけたり撫でたり、なんとなくうろうろしたり、他にできることといえばせいぜいツムツムをするくらいのもの。
といってじっとしていると急に悲哀感に襲われるし、仕方ないのでスケッチをすることにしました。スケッチは、こういうときに最適でした。
おててで口をはさんでぷにゅっとなっているの(上の写真の状態)が可愛かったので、それを描いたり。

まめ子は、毛色の混じり具合などがなかなか複雑で、上手く描けないなアとつねづね思ってきたので、ゆっくり観察して描ける良い機会でした。(ほとんど動かないし……描きやすかったです。)
ここはこんなふうに毛が生えていたのだなあ、とか、いつも見ているまめ子に新たな発見がありましたよ。
気に入っているのは、横向きの顔を描いたもの。なかなかまめ子らしく描けたのでないかと思います。





思えばこれまでも、まめ子の絵をちょこちょこ描いたものでした。
気に入ってるのはこれら↓かな。下手ですが。。


※まめ子型宇宙船をまめ子と見ているところ


土星のわっかに座っているところ




まめ子がいなくなってからも、こうしてブログを書いたり、絵を描いたり、SNSに写真や短い文章をupしたりすることで、ずいぶん気持ちを和ませることができています。
こうしたことができなければ、もっと深刻な喪失感に苛まれていたのではないかなあ、書く(描く)ということがあってよかったなあ、それを手軽に共有できるツールがあってよかったなあ、と思っております。

私はだいたい人生において「忘れたい……」と思うことばかりなのですが、この度、もしかしたら人生で初めて、「忘れたくない」という強い感情を体験しています。

まめ子を火葬場に運ぶとき、妹と、まめ子のふわふわに顔を埋めて、匂いを嗅ぎました。
われわれは、まめ子の香ばしい匂い(通称「まめ臭」)が大好きでした。われわれは、まめ子が死んだらまめ子の匂いまで消えることにずっと怯えており、生前からよく、「まめ臭を瓶に詰めて残せたらなあ」と話していたものです。実際、伏せり始めてから、次第にまめ臭は薄くなっており(摂食をしなかったからだと思われます)、せつない気分でした。
しかしそのとき急に、「そうか、生きてる間だけやからええんやなあ!」 とハッとしたのでした。
それと同時に、まめ子の匂いはなくなっても、そして匂いそのものは忘れても、「まめ子は香ばしい匂いがした」と言語化し得たことでそのことは情報として記憶されるんだ! と、まるで大発見のように思い至ったのでした。
人間は言語によっていろいろな不幸もありますが、言語化して記録するという機能をもったことは本当にたいしたことであるなあ、としみじみと思ったのでした。もちろん言語化することで漏れ落ちるものもありますけれども。

フラカンの「日々のあぶく」 という曲が好きなのですが、ああこういうことなんだな、という気持ちです。そういえばこの曲の詞にも、「犬の匂い」 という言葉が出てきますね。忘れたくないよね、犬の匂い。



毛細血管がぶちぶちと 音をたてながら
1本 2本 3本 4本と 切れていくように
今まであった出来事が 確かにあった出来事が
あぶくのように毎日少しずつ 弾け飛んでゆく
もしも記憶のバケツが いっぱいになってるんなら
これから起こる新しい出来事から 消して欲しい
未来とか可能性とか そんなあやふやなものより
今まであった出来事を ひとつ残らず

真夏の光線 冬の頬っぺた 風邪の日の夢 踏切の音
君の肌 子供の声 犬の匂い ドブ川に浮かんだコーヒーの缶
初めて嘘をついた日の夜 初めて感じた憂鬱 中途半端な別れ際
校舎の影 自転車のサビ 返し忘れた図書館の本
言い出せなかった言葉 涙のすじとロックンロール
真夜中 空 永遠の感触

忘れるな 忘れるな 忘れるな 忘れるな 忘れない

フラワーカンパニーズ 「日々のあぶく」)