続続続・芥川賞ひとこと感想日記(1989-1980)

芥川賞受賞作を遡って読んでいるひとこと感想の続きです。80年代の分です。

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80年代は「該当作なし」の回多し。80年上半期、81年下半期、82年上半期、83年上半期、84年上半期、85年上半期。86年に至っては2回とも該当作なし。昨今のように芥川賞が「毎年出るやつ」ではなかったのですね。その後該当作なし回は減って、2011年下半期(第146回)以降は毎回受賞作が出ています。(ちなみに最初の該当作なし回は早くも第2回で、2.26事件のため審査が中止になったらしい。)

また、できるだけ出版された年の単行本の版で読むようにしていて、標準的な厚さのハードカバーが1000円を超えるのはだいたい80年代後半くらいなんやなと分かりました。私が初めてお小遣いで本を買ったのは1990年頃で、その頃は、「薄い文庫は300円まで、ふつうの文庫が400円前後、ハードカバーは1000円から」という認識でした。今もその感覚で薄い文庫を買うと、倍以上、いや3倍くらいするので驚きます。

 

大岡玲『表層生活』(1989年下・第102回)

着飾ったお嬢さんたちがいかにもひと昔前の女性像て感じだった(知的なことに関心はないのに急に鋭いこと言う、みたいな)。秩序と論理=「計算機」/自然と非論理=「女」、って対立で読むとすれば古典的な男性原理vs女性原理の構図で、裸体の女のイメージは『運転士』(92年受賞作)のラストにもちょっと似ている。萌え化させたら綾波レイになりそうな「女」。だが「計算機」にとっての「シミュレーション」や「サブリミナル」は、論理の側に自分を置こうとする試みのようにも、秩序を破ってリアルに近づこうとする実験のようにも読めるなあ。そしてその構図の中で、「神経衰弱」の役割は? 

 

■ 瀧澤美恵子『ネコババのいる町で』(1989年下・第102回)

ひとりの女性の半生記のようなお話で、地味かもしれないがしみじみ良かった。タイトルの「ネコババ」は隣家の人物のあだ名で、タイトルになってるのに別にこの人が重要人物というわけでもない。祖父母の住む地域は、かつて料亭や待合が並んだ地域であるとされ、その背景が詳しく描かれるわけではないのに、かつての人間関係が現在に反映されていることが窺える。

南木佳士『ダイヤモンド・ダスト』(1988年下・第100回)

これは何度か読んだしかつて妹に本をプレゼントしたこともある。「小説を読んだ」という満足感を得られる作品だ。水車の風景描写が最も美しいけれど、それはマイクが直接見た風景ではなく、これからも見ることはない風景を語る想像の言葉なのだ。「とてもいいなぐさめを、ありがとう」の台詞は、最初読んだときには皮肉なものに感じたけれど、その後たびたび思い出して、これしか言えないような場面が人生にはたくさんあるなあと思う台詞である。

 

余談:単行本には他に3作収録されていて、医師が主人公である作品と看護師が主人公である作品が半々ずつ。看護師は、現代医療へのアンチ的な視線を担う。「ダイヤモンド・ダスト」はその医師と看護師の役割分担も調和的で美しい。なお作者は地域医療を行う医師。地方の生活者として地に足をつけようとする中で、「書く、という行為は、内面の浮き揚がろうとする足を大地につけさせるための作業だったのかもしれない」というあとがきの弁も興味深かった。

 

■ 李良枝『由煕』(1988年下・第100回)

在日朝鮮人として日本に生きてきた「由煕」は、韓国に来るも母国を母国であると感じられぬまま日本へ戻る。韓国語に馴染めない彼女は夜ごと日本語を書きつける。一方「由煕」と対照されるのは、語り手の故叔父。日帝時代に抗日意識の強い村で育ち、戦後は日本語を読みこなして仕事をしながらもどうしても日本語を話すことができなかった。「一人は日本がだめ、もう一人は韓国がだめ、それでいて同じ同胞なんだもの」。言語や文字とアイデンティティという普遍的なテーマであると同時に、日本人として本作を読む読者は、彼女らの運命に自国の植民地主義の歴史が関係していることを考えざるをえない(ということを言っていると思われる川村二郎の帯が大変良い)。幻想的な趣は、「由煕」が一度も登場せず語り手を通じてのみ語られるからかな。由煕が語り手の家に残していった文書は、日本語であるため語り手には読めない、ゆえに日本語が読めるはずの読者にも読めない。

 

新井満『尋ね人の時間』(1988年上・第99回)

タイトルも男性の不能(ED)というテーマも興味深く期待して読み始めたがあまり分からなかった……。中年の主人公が謎めいたモデル美女にホテルに誘われるとか女の子に薔薇百本送るとか「安心したまえ、変な場所へ君を連れ込んだりはしない。何でも欲しいと思うものを言ってごらん」とか昔のドラマみたいやなあと思ったことばっかり印象に残ってしまった……。モデルの女は、二度目は主人公がEDと分かっていながら誘ったのに「ひどい……」とかいって呻きだすし、何がしたいんや。そして「妻の新しい彼氏が妻の引っ越しについてきて、いきなり逆立ちを始めて逆立ち健康法を勧めてくる」というシーンにすべて持っていかれてしまった。作者は「千の風になって」の作曲者。

 

余談: 主人公が心理療法を受ける場面がある。長椅子に寝てイメージを思い浮かべてそれを喋る治療法ということになっていて、催眠とか精神分析とかの感じ。取材して書かれたのか想像で書かれたのかは分からないけれど、たしかにちょっと前まで心理療法のイメージって(認知行動療法とかでなくて)こっちだったな~、と思った。そういえば幻想の描写の部分は美しかった。松葉杖って、ダリの絵でも性的不能の隠喩だったっけ。

 

池澤夏樹スティル・ライフ』(1987年下・第98回)

そういえばこれも「横領小説」か! 前も書いたかもだけど、「横領」というテーマがなぜか好きだ。

 

三浦清宏『長男の出家』(1987年下・第98回)

面白かった。何が面白かったかというと上手く言えへんけど、どこかトボけた語り口とか、人の営みのユーモラスさっていうか。息子……いや「良海さん」が得度式の後に家でテレビ観たり「オフコース」聴いたりしてるとことかクスッとなった。和尚は、禅を追求する立派な僧であるかと思いきやどこか胡散臭さも感じられる人物であるが、そのときどきで語り手の前に現れるそうした一面がそのまま描かれている。妻も、子への愛着に執着する愚かな女のようであったかと思えばひどく冷静で割り切った面を見せ、「また間違えたか」と語り手は独白する。

 
余談:三浦清宏さんて、国書刊行会から心霊研究の本を出してはる人やったんや! 知らなんだ。そちらも読みたい。

 

村田喜代子『鍋の中』(1987年上・第97回)

17歳の少女を語り手とする語り口も登場人物らの台詞もちょっと古風で、教科書に載っていたような文体だ~と思って読んでいたら、「じゃ、気が違った子は誰なんだ?」から突然怖くなった。

 

■ 米谷ふみ子『過越しの祭』(1985年下・第94回)

同時収録の前作「遠来の客」と連作で、国際結婚をした米在住の「道子」の話。「道子」の台詞は、モノローグだけでなく英語で話しているはずの台詞も大阪弁で表記される(「道子の英語には大阪弁のアクセントがある」と説明される)。この大阪弁の破壊力が作品のエネルギーになってる。「その包、はよ開けてみて。腐ってますかっ! 腐ってんねんやったら怒ってもええけど、腐ってるかどうかも判らんくせに怒鳴るなんて何やのんっ!」「(そんなもん着てこられるとこっちがはらはらするやないの。ケンが、アイスクリームかマッシュド・ポテトのついた指で触わったらどないしまんねんな。大体、そんなあざらしの赤ん坊を殺したようなもんをよう平気で着れるこっちゃ)」。実際は道子は英語を大阪弁のように自由には操れないはずで、それゆえ夫婦の行き違いが起きたりもする。日本が嫌で出てきたアメリカでも因習のしがらみに出遭い障害児を抱え苦労することになったが、そんな中でも、不条理が嫌で日本を出てきたのだから不条理には屈しない、という内面の自由への意志が大阪弁に籠められてる。他にも「障害者の親」文学として思うところとか異文化の描き方とかいろんな感想はあるけれど、とにかく、大阪弁のパワーが痛快だというのが第一の感想。

 

木崎さと子『青桐』(1984年下・第92回)

現代文の問題に使われそうな文章だ~と感じたのは、キャラクターの対比が分かりやすくて、テーマも明確やから。現代における生と死、医療/自然の対立、といテーマは今ではベタな感じもするけど、「充江」が叔母を医者に見せたいと思うときに「ただ、癌なら癌である、という真実を」知りたい、という心情の描写が面白かった。たしかにわれわれが病院にかかるときの欲求って、単に「治してほしい」だけではなくて「科学の知見によってどういう状態か規定してほしい」というのがあるな~!と気づいた。そして叔母は癌であろうとなかろうと死への心準備ができているので、病名を知る必要はない。

 

高樹のぶ子光抱く友よ』(1983年下・第90回)

簡単に要約すると階層の違う二人の女の子の交流の話。アル中の母をもつ不良少女と、大学教授の娘。現代だったら、このテーマ自体がもっと注目されそうな気がするしシスターフッドの話としても読まれただろうと思うけど、選評ではそういう点には触れられておらず。ラストは「残り頁がこれだけしかない……!なんとかなれ~~!」と祈りながら読んでしまった。

 

■ 笠原淳『杢二の世界』(1983年下・第90回)

「杢二」は実際に存在してたら友達になりたいタイプ。セスナ機をめぐる妄想的な彼の想念に、語り手(兄)はすぐそばまで接近しつつ、「そういう世界もたしかにあるだろうと認めた上で、所詮自分とは無縁のものだという気がした」と切り離すのが、死に向かった人と生きていく人を分かつラインなのか。

 

余談:車谷長吉「鹽壺の匙」と同時に読んでいて、そちらも浮世に馴染めない父の弟が自死してしまう話だった。複数の本を併行して読んでいるとよくこういうことがある。

 

唐十郎『佐川君からの手紙』(1982年下・第88回)

小遣いもろて文庫本とか買い始めた頃、近所の本屋のよく見る棚のいつも目につくところに『佐川君からの手紙』が置いてあって、「これってあの佐川君かな?」と気になりつつ(事件発生時は物心はついていないがあとに母に聴かされた――母にはそういう気持ちの悪い話をよく教えられた)読むタイミングを逸し続けていたので、この機会にやっと。オハラの登場以降は、虚なの実なの、と思いながら読み進めて、オハラがですます調で語り始めて芝居のクライマックスを見せられているような気分になり、「初めて、三者は一堂に会したようなものです」のところでその空間が舞台として見えて、あー演劇を見せる要領で書かれた作品なんか~と分かる。最後に「そうか!」と思い、も一度最初に戻って読まなあかんようになる、という仕掛け。しかし今読むとやはり「被害者のいる事件をこんなふうに扱って大丈夫やったんやろか」ということばかり気になる。海外が今より遠かったからできたのかな。

 

加藤幸子『夢の壁』(1982年下・第88回)

最近読んだ作品の中で、最も読後感が恐ろしい作品やった。しかし、選評では誰もこのラストに言及していない。丸谷才一に至っては「口あたりのいい美談」としている。これが!? 「赤の他人の卒業記念アルバムをくるときのような退屈」とも。こんな卒業アルバムある?? 私が何か読み違えているのやろか? たしかに、佐智と老高の交流は、戦後の日本人と中国人という立場を超えた優しい交流のようには見える。いやしかし……。文庫版のあらすじも「中国人の少年と佐智との無垢な心の交流を描いた」「終戦前後、少女期を北京で過ごした佐智が見たことは、少女の心をひとまわり大きくした」となごく穏当。ネットの感想も探してみたが、ラストに言及している人を見ない。なぜだ。なんか誤読したのか、私だけ違う作品を読んでしもた????

 

吉行理恵『小さな貴婦人』(1981年上・第85回)

猫をめぐる短編の連作。詩人の中年女性は作者自身がモデルなのだろう、美人女優の姉「和沙」が出てきたりする。主人公はその姉に引け目を感じているのだが、そうした端々に現れるこの主人公の卑屈な繊細さ(今の言葉でいうと「HSP」的というか)がよかった。デパートの店員に小声でなんか言われてる気がするとか、悪いデマを流した人に抗議したものの恥をかかせたらあかんと思うて要らんフォローをしてしもてそのことを後で思い出して不安定になって無駄になんか食べて4kg太るとか。そういうちまちましたつらいくだりは全部うんうん!と思いながら読んだ。

5つの連作のラストが表題作で、表題作が最も良かった。電車で読んで泣いて困った。いわゆる感動で泣いたのではなく、動物を最後まで飼い遂げた人が皆経験するであろうあの胸いっぱいの嫌な感じを思い出したのだ。


余談:選考委員に兄・吉行淳之介がいる。妹の作品を読むのってどんな感じなんだろうな~。

 

尾辻克彦『父が消えた』(1980年下・第84回)

尾辻克彦赤瀬川原平としてのトマソンとか路上観察とかをよく読んできた。本作は、墓地へ行くまでの道を「私」と「馬場君」が自由連想のような会話をしながら行く話なのだが、その会話の発想や一つ一つの表現の絶妙さを味わう作品という感じで、そこがトマソン的だった。トマソン的な部分以外では、「目」の描写、見ることをしない「目」の描写が特に印象的だった。