芥川賞ひとこと感想日記(2022-2010)

一昨年、「そういや読み逃してる芥川賞受賞作っていっぱいあるな~」と思い、芥川賞受賞作を時代を遡って読んでみることとしました。一時、なぜかフィクションを読むハードルがやたらに高い時期があり、文学好きですとか言いながらぜんぜん読めてなかったんですが、いろいろ読むうちに「趣味は読書」だった頃を思い出しました。「一度読んだものももう一度読む」というルールを課したので(べつに誰に頼まれてるわけでもないが)、もう一度読み直したかった作品を読む機会にもなり、そうすると初読時には分からなんだ味わいを得られたり、話題になった当時のことを思い出したりするのもまた良しです。読んだ作品の感想をクローズドのSNSでダラダラ書いておるのですが、せっかくなのでここでも紹介します。いつもダラダラ書いてしまうので、ここではダラダラ書いたやつを要約してできるだけひとことずつで行きます。初読のものは、上手く理解できんかったなあ、もう一度読まんと分からんなあ、というものも多いのですが、あえて初読の浅い感想を記しておきます、スミマセン。

 

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■ 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(2022年上・第167回)

何年か前「フード性悪説」アンソロジーというのに参加させてもらったけど、まさに「フード性悪説」的な小説(メシマズ小説)だった。明確には書かれてないが二谷の文学への思い(彼はかつて文学サークルに属していた)が裏テーマだと思う。芸術的なものや精神的なものに「食」が対置されるのはメシマズ構造(メシマズ構造とは?)の典型だと思うが、しかしここでは二谷は労働と生活のためにいずれにも充分アクセスできず、そのストレスは彼女である芦川には見えないストレスだ。職場での芦川をめぐるモヤモヤは、ともすると「弱者特権や!」みたいな言説に取り込まれそうだけど、そうならずにかつそのモヤモヤを否定せずに扱おうとするんが「文学」の領域なのかな。犬描写が前作に増して可愛い。

余談: 作中に「芥川賞」って言葉が出てくるけど、「芥川賞」って言葉が出てくる芥川賞受賞作はどれくらいあるのかな?

 

■ 砂川文治『ブラックボックス』(2021年下・第166回)

書類、社会保険料配偶者控除、医療費、そういう「ちゃんとすること」ができない主人公がまんま自分と同じでつらい。かつそれが「無頼」でもなく、また労働の問題が描かれてはいても(資本家vs労働者の構図を前提とした)「プロレタリア文学」とも違うのが現代的。彼はとりあえず今ここで金を稼いだりネトフリ見たりスマホアプリでゲームしたりすることはできるが、先に続いてゆくものを持たず何かのときの保証はない。これまで所属したところはすべて「後足で砂をかけて」逃げてきたが、痛快な逃走という感じもしなくて、次々に逃げているのにどこへも行けない感がある。そのどこへも行けなさは彼ひとりのものではなく、「尊大な態度を配送員に示す巨大資本のビルの警備員、コンビニ店員に怒鳴り散らす勤め人、食べ物を運ぶ自転車便をこき下ろすバイシクルメッセンジャー」、皆が、そうしたシステムとして設計されているわけでもないシステムの中で閉塞している感じ。突然の場面転換はタルホの「弥勒」を思い出したり。

 

■ 石沢麻衣『貝に続く場所にて』(2021年上・第165回)

海外実録ものみたいな感じかな~? と思って読み始めたら、いわゆるファンタジー的世界であることに気づき、しかしそれは現実の災害と結びついていて、こっちは揺るがしがたい起こってしまった事実である。現実の喪失の事実の上で物語を創るというのはどういうことか? をめぐる小説になっているな~と感じたけど、これじゃ何も言うてないに等しいな、一読では消化しきれずでした。面白い象徴やなあと思っていたものが後にすべてつながってきて おおー!と思った。作品の中でそうして作られている場は失われたものたちの待ち合わせスポットのよう。

 

■ 李琴峰『彼岸花が咲く島』(2021年上・第165回)

ニホン語・女語・ひのもとことば という三つの言語が存在する世界で、それらを読んでいるうちに、慣れ親しんだはずの「日本語」で書かれた地の文が浮いて見えてくる、そもそものそのルーツと漢字仮名交じり文の成立に思い至らされる、という体験ができた。

 

■ 宇佐見りん『推し、燃ゆ』(2020年下・第164回)

「推し」と「ファン」という関係性もテーマのひとつではあるけれど、むしろ、主人公の生きづらさに重点が置かれ、思った以上のつらみ小説(もちろん良い意味で)だった。特にバイトの場面のしんどさは多くの不器用人たちが共感するだろう。『自殺直前日記』(山田花子)の再来か。ハイボールのくだりなどはまるで自分の身に起こったことであるかのよう、やめてやめて。重苦しいゴミ溜めのような生活の中での、超越的なものとしての「推し」への思い――実際ゴミ溜めのような部屋の中で「推し」の神棚だけは整頓されている――は、ほとんど普遍的な崇高と信仰のテーマだけど、一方で、推しとファンの関係は商業主義の中の関係でしかなく、かつ、「推す」側はそんなことも消費者としての己のちょろさも分かり切っていて、8800円で時計を買う。人間宣言のような「推しは人になった」。だがこの作品では、主人公が「目を覚まし」たり、現実の生を生きよう、みたいにはならないのがよかった。


余談:この後読んだ『かか』『くるまの娘』も凄くよかった! お若いのにすごい筆力や!

 

■ 遠野遥『破局』(2020年上・第163回)

なんとなく平野啓一郎を思い出して読んでいたら、選評で平野啓一郎がめちゃ誉めていたので、当たった!(?)と思った。三島ぽい系譜? そういえば両者とも法学部の出身だ。一瞬登場する「変な服を着てる文学部のやつ」が最も気になった。別に重要登場人物でもなんでもなくて、主人公と元彼女が大学のカフェテリアから外を見ると和装の学生がいて、「ああいう格好で大学に来るのはほとんどが文学部の人間だと、文学部の膝から以前聞いた」という一節があるだけなのだが、この異物のような文学部生の描写が、この語り手の秩序愛の世界における異物としての「文学」のメタファーになってるんかな~とか思った。

 


高山羽根子首里の馬』(2020年上・163回)

記憶すること、記録すること、というテーマに、沖縄の歴史やファンタジー的設定が絡む。馬がなんともかわいい。体温や毛の質感や湿った匂いなど、なまなましい感じ、哺乳類のかわいさがありありと想像される。別にかわいいものとしては描かれておらず、むしろかわいくないものとして描かれてるのに、ふしぎだ。


■ 古川真人『背高泡立草』(2019年下・第162回)

ある一族をめぐる連作になっていて、「親戚んちの納屋の周りの草刈り」という一見超地味な設定の中に、さまざまな時代のさまざまな人のその土地の記憶にまつわる物語が織り込まれる。ハッとしたのは、若い従姉妹同士が韓国での結婚式について雑談するなにげないシーン。かつての日本と朝鮮半島との関係がすっかり無意識下に沈んでしまった現代、ということに。また「ヘノコ」のくだり。

 

■ 今村夏子『むらさきのスカートの女』(2019年上・第161回)

語り手と「むらさきのスカートの女」の関係は、私と「怪文書」的なものの関係に似ているな、と思った。ここでいう怪文書とは、街にひっそり貼られているような、多くは妄想と思われるものを含む何らかの奇妙な主張等が書かれたもののことだが、(当ブログの読者はお分かりのように)私はやたら怪文書を見つける能力がある。人と歩いていて私だけが怪文書を見つけてしまう、ということが何度もあった。なぜみんなはこれに気づかないのか? もしかして見えていないのか? 私はこれを、「怪文書に呼ばれる」状態と考えているけれど、もしかすると自分の怪文書への執着が異常なのかもしれない。または、別に怪文書じゃない文書にも勝手に怪文書性を見出だして怪文書がっているのかもしれない。なんのことかよく分からないと思うが、そんなことを考えた。

余談1: 私もホテルの清掃のバイトをしていた。よって、備品の話とか内から鍵をかける話とかのディティールが面白かった。

余談2:今村夏子はこれの前に読んだ『こちらあみ子』が衝撃的だった。


■ 町屋良平『1R1分34秒』(2018年下・第160回)

アルバイトをしながらボクシングを続ける青年の話。夢を追う人、とまでいかなくても、なんかを多少なりともがんばったことある人なら共感するだろうフレーズがたくさん現れる。「明日を放棄したまま未来を夢みるふりをしつづけなければいけないのは、どんなボクサーもおなじか?」「生きることを考えるのは一旦止めなくては。どうやって生きずして勝つか、ということに集中しなきゃ」。箴言ぽいあるあるの中にふととらえどころのないフレーズが浮いているのがよかった。「海べでカモメがギャー」がなんかかわいい。

 


■ 上田岳弘『ニムロッド』(2018年下・第160回)

ビットコインとかそもそも貨幣というものの不思議さとかすごい興味あるテーマなのだが、私が極度の経済音痴であるせいか上手く消化できず。ビットコインをめぐって、駄目な飛行機コレクション、小説の新人賞、27歳で死ぬロックスター、出生前診断……とどのテーマも興味深いのに。駄目な飛行機コレクションの引用文献がNAVERまとめでびっくりした。知識や言葉も貨幣と同じくもはや仮想空間の中にある、ってことのメタ表現なのかな? そしてNAVERまとめももう無い。



高橋弘希送り火』(2018年上・第159回)

端正な文章で読ませる。好き。自分はそもそも、狭い範囲での人間関係や暴力を丹念に描いたものが好きなんやなと分かった。それが、もっと大きな権力関係の比喩であるからということもあるが、というより、それ自体が好きなんやと思う。

余談: 作者がベンジーに似ていて驚いた。

 

■若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(2017年下・第158回)

一人称と三人称が交錯する語り。筋がすごく面白いとかいうわけではないのに、終盤から涙が止まらなんだ(※陳腐な表現なので使いたくないが他に表現がない)。方言の文体が呪術のようであるから、音楽を聴いて理由は分からず涙が流れるというのに近いのかもしれず、あるいは、母や母方祖母や父方祖母の人生、または今後老いゆく自分の人生を重ねたからかもしれない。それにしても、最近の受賞作を少し読んだだけでも方言が使われている、あるいはそれ自体がテーマになっているようなものが多く、日本語の中の多様性、「標準語」に抑圧されてきたもの、そもそも日本文学とは?ということを思う。

余談: 受賞時、漠然と「漫画も小説も書けるなんてすごいなあ」と思っていたが、「竹内佐千子」さんと混同していたことが分かった。こういう混同をよくする。


石井遊佳百年泥』(2017年下・第158回)

海外での災害を扱った作品、と思って読んでいたら、いきなりインド人が空を飛び始めた。マジックリアリズム的な手法で泥の中から発掘される過去とあったかもしれない過去が交錯する手品みたいな構成。次々現れるエピソードは饒舌なのに、その背後に、母の無言がある。


■ 沼田真佑『影裏』(2017年上・第157回)

岩手の自然の描写、静かな文体、渋いタイトル、など、大多数の人が思い描く「純文学」という感じで、古風な作品かなと思いながら読み進めたら、SRSという言葉や震災が出てきて、あっ現代の作品だ、と思うけど、それについて饒舌には語られない。終盤で急に私好みの話が出てきた(私好みの話とは横領とか詐称とか)、が、話はそこで終わるのでもう少し先を読みたい気持ちが残る。

 

山下澄人『しんせかい』(2016年下・第156回)

挿入句の入れ方が独特。「先生」像は、「やばくて権威的なカリスマ的人物」としても描けそうなのに、そうはならない微妙さがいいな、と思ったけど、モデルを知って(ハードカバーの題字はそのモデルが書いている)、種明かしされたような気分に。作者を知っている人が読むと、小説に書かれた時間から今の作者につながる諸々が想像でき、また違った感慨を得るのかもしれない。


村田沙耶香コンビニ人間』(2016年上・第155回)
いかにも読んでそうなのに読んでなかった作品。自分でも意外だ。主に以下の3つの感想をもった。
1)「誰にでもできる簡単なバイト」の代表のように言われるコンビニ店員の仕事(※現実にはそんなことない)の、クリエイティブなところや職人芸的なところを書いたくだりが楽しい。
2)さんざん言われているだろうけれど、主人公の人間観察に、テンプル・グランディンの「火星の人類学者」という言葉を思い出した。
3)「白羽」は、戯画化されてはいるし選評でも批判的に「奇天烈」と評されているけれど、現実によく出会う人だ。「白羽問題」は長年自分の問題でもあるので、他人事と思えない。白羽の言説は変なんだけど、それはそれである種の凡庸に則っている。今でいうインセル的なよくある言説というか。だが「普通」を自認できる者たちは白羽の言葉を単に変人のものとしてスルーすることができ、主人公だけが白羽の話を(べつに共感はしなくても)聴いてしまう、というのはよく解る。物語の序盤で出てくる、コンビニに乱入するやばい人を主人公が観察する場面が、その予告のようになっている。私もいつも、「白羽はなんで私にばっか話しかけてくるんだ」と思ってきたよ。


滝口悠生『死んでいない者』(2015年下・第154回)

誰の視点で語られているのか分からない表現が時々現れ、それがタイトルの「死んでいない者/死んで・いない者」に通じているっぽい。

 

本谷有希子異類婚姻譚』(2015年下・第154回)

ぬめっと自他の境界が溶ける感じに川上弘美を思い出した。猫を山に捨てるエピソードが不快でよかった。


羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』(2015年上・第153回)

介護の話。最後、たぶん意図的に「おぼれる」という表現が使われており、ここで若さに満ちたはずの主人公と爺が重なることになる。

 

又吉直樹『火花』(2015年上・第153回)

又吉ファンの妹に当時借りて読んだので2回目。細部のエピソードや会話に、芸人さんというのはいつもおもろいことを考えてる職業なんやなあ、と感心させられる。神谷さんと主人公の関係は、中宮定子と清少納言みたいなものか。ところどころ顔を出す青春レクイエムなくだりはちょっとウェットに感じるけど、そこが作者の書きたかったとこなんかもと思った。最後は「表現と倫理」みたいなテーマをこんなふうに入れてくるんか~と。

 

小野正嗣『九年前の祈り』(2014年下・第152回)

障害をもつ子の母の話、といえるが、診断や、医療や福祉や療育のような「外部」の言葉は出てこない。「その腐敗から生じた毒がさなえの体を通して息子に伝わってしまったのだろうか」という表現などは、もちろん著者がそんなふうに考えているということでなく作中人物がそう考えているということだがぎょっとしてしまい、そのように思ってしまう主人公の閉塞を思い、主人公をなんとかその閉塞から出してやりたいように思うけれど、「外部」にいる読者は物語に介入できないので当然それはできず、主人公が水中をもがき歩いて何かを見出だす道行きを見守ることになり、その先に見いだされるのが九年前の、先達の女性たちとの記憶である。

余談:序盤の主人公と母のやりとりが実にリアルで、「あんパンの皮だけ食べるような会話」という比喩に膝を打った。犬を飼ったら情が移って子供ができなくなるとか、うちの母も最近こういうことを言い出したな……と思い、母のことを思い出しながら読んだ。というか、わが母も「障害をもつ子の母」であるので全体的に母のことを思い出して読んだ。


柴崎友香『春の庭』(2014年上・第151回)

問題の屋敷をはじめ、色彩の描写が美しくて可愛い。家や街の歴史という点では、最近「高低差」とか流行っているが(地形にその土地の歴史を見る)、そういうものを思い出すなどした。流血してまで風呂を見ることを第一に考えようとする女性を前にした、「こんなに傷ついてまで目的を達しようとしている人を前にして、なにもしないわけにはいかない、と太郎は思った」という主人公の心情描写が可笑しかった。

 

余談柴崎友香さんは、岸政彦さんと共著のエッセイ『大阪』をその後読んで(このとき買ったのです)、大阪の街に刻まれた歴史のひとつひとつを慈しむまなざしを感じて、また地理学を勉強されてたと知って、街や土地にそのような慈しみで以て接してきた人なのやなと分かって、この作品もより自分の中で色鮮やかになったので、これももう一度読みたい。あるテクストを読むときに、作家の背景とかその作家の他の作品との関係から理解するというのは邪道的な読み方なのかもしれないけれど、私はそういうふうにしてその人のテーマが見えてくるのが好き。ぼんくら読み手なので一作では見えないことも多いし。

 

小山田浩子『穴』(2013年下・第150回)

姑の二万円と四千円のところで一気に面白くなって引き込まれた。「極端で変な人物」「小さな金の絡む事件」なども自分の好きな要素だ。一緒に収録されている「いたちなく」「ゆきの宿」も面白かった。いずれも、子どもをもつ/もたないことが伏在するテーマになっている。また、動物や魚がどこか不気味なものとして登場するのも三作に共通していて、「不気味な生き物」もまた好きな要素だ。


藤野可織『爪と目』(2013年上・149回)

(正確には違うが)二人称小説的で綺麗でクールな文体。一見、母の死の遠因となった継母への、継娘による復讐譚のようであるが、愛とも憎しみともつかない二人称の語りかけが続き、そしてその愛も憎しみも無い無さにおいて継母と継娘が重なり合うことが、ラストではっきり分かる。コンタクトなしのぼやけた視界だったのが、そこでピントがやっと合うような。

 

黒田夏子abさんご』(2012年下・148回)

おおおおー!! これはーーー!! なんなんだ!! 9割以上の読者が思ったであろうように、うわあ読みづらいよう、とまず思い難儀して読んだが、読み終えると謎の中毒性でもう一度読みたくなり読み返した。しかし形式は変わっていても「奇書」の感じはせず、むしろ正統派の印象を受ける。明確に何かを表現するためにこの形式が選ばれたのだと思う。でも何かって何? 幼年期の未分化な世界。夢と現の間でのたゆたい。いや、お手上げなのでもう一度読みます!(この栗原裕一郎の書評になるほど!と思うた→ https://allreviews.jp/review/2595

 

鹿島田真希『冥土めぐり』(2012年上・第147回)

「貧困でも、孤独でも、病気でもない、なにものか」である「あんな生活」という主題は、定量的な不幸ではなくて、「文学」って領域は定量的でない不幸を扱うのに向いてると思う。やや戯画的に描かれた母と弟は、時代がかった女言葉・男言葉を喋るせいもあって漫画のキャラクタっぽくもあり「レトロ」感を感じるけれど、高級リゾートホテルが安い保養所になっているという設定は現代の日本にいかにもありそうで、もっというなら栄光を夢見続けるこの母と弟自体が現代日本の戯画なのか?

 

田中慎弥『共喰い』(2011年下・第146回)

受賞直後に読んだので二回目。まず、このタイプの作品がどうしても好みだ。さらに作者のキャラクターも好きだ。どうしてもこういう人を好きだと思ってしまう。これはしょうがない。初読時の感想は、「意外に古典的なテーマを扱った小説、文体が意外に繊細」というものだった。「意外に」というのは、無頼で破天荒という作者のイメージを先に持っていたからだけれど。今回もそこは同様の感想で、閉塞的な貧しい川辺が舞台ではあるけど、源氏物語とかエディプスとかを引き継いだ端正な物語という感じで、私はおそらくフロイト的人間なので「女が父のお古なら、自分自身は、一番新しい父だと感じた」とかにぐっときてしまう。そんな中で今回は、女性登場人物の鮮やかな存在感が印象に残った。女性への敬意、といっても「女は強し」とか母性がどうのこうのとかでなくて、フラットな敬意を感じた。

 

余談1:本書の表紙を見るたび「みだれ髪」かと思ってしまう。

余談2:この年で石原慎太郎が選考委員をやめているということも知った。ぎりぎり田中慎弥の閣下発言が聞けてよかった。


円城塔『道化師の蝶』(2011年下・第146回)

表題作も、一緒に収録されている「松ノ枝の記」も、さまざまな奇異なアイデアが連ねられている小ネタ的なくだりはわくわくし、声を出して笑ったところも。こんな作品ってどないして書くんやろ、想像もつかへんわ(まあすべての創作は想像もつかないのだが…)。奇想の中にうっかり通俗が混じりこんでしまっては興ざめだし、かといって奇想だけで小説として成り立つのか、といえばそしてそれってそのまま、作中(「松ノ枝の記」)での、ロケットについて文章で記して、それを理解できるのは結局ロケットを見たことがあるからであって、読者が予めロケットを知らないとき、どうやってロケットについて書けるのか、書く意味があるのか、という問いに通じている。変わった小説かもしれないけど、シュルレアリスムダダイズムがやろうとしたことの流れにあるのかな。

 

余談: 「よく分からない」的な選評もあって、文学賞の選考委員っていろんなタイプの作品を読んで評価せなあかんから大変やな~と思ってたけど、分からんというてもええんや、となんか安心した。いや、別に心配しなくても芥川賞の選考委員を務めることは生涯ないのだが……。

 

朝吹真理子『きことわ』(2010年下・第144回)

古代語、古代の呪的なことばって感じのタイトルやな~と思っていたら、主人公二人の名前を合体したものであったのだけれど、ストーリーはまさに、今は大人になっている二人が記憶の向こうの子供時代をたどるもので、記憶の中で二人の皮膚や髪は絡まりほどけずどこからどこまでがどちらなのか分からないものとして描かれるので、なるほど、そうした自他の未分化な人間の発達の古代を描いている点で、受けた印象は間違ってないんやなと思った。本筋ではないが、好きなフレーズは「この皿洗いの果てに老年がある」。

 

西村賢太苦役列車』(2010年下・第144回)

いかにも自分が読んでそうだが初読。なんで今まで読んでなかったのか。やはり自分は、ダメとかクズとかが描かれた話が好きだな……と思った。しかし、クズを描いた小説というイメージに反し、この主人公、何がクズかといって冷静に考えるとそんなクズではない。ラストに向けて何か決定的なカタストロフが起こるのではないか、とドキドキしながら読んでいったのだが、えらいことになってしまったようでそうでもないような感じで終わる。そしてラストの一文ではっきり「私小説」になる。小説を読むときって、あえて、作品の外がないかのようなふりをして読んでいるけれど、ここで、作品が作品の外につなげられる。というか、作品の外とのつながりを実は知りつつ読んでいたことに気づかされる。私小説って面白いな。

 

赤染晶子乙女の密告』(2010年上・第143回)

受賞直後に読んだので二度目。最も再読できてよかった作品かもしれない。前回は「コミカルであっさり終わる小説」って感じで物足りず、ぎこちなさを感じたのに、今回はえらく面白く読めて、コミカルな中にさまざまなテーマを織り込む手つきに、手練れの人の作品や、と感じた。同じ作品なのになぜこんなに印象が変わったのか、読み手(私)って信用できないな……。大時代的少女漫画のパロディ風に外国語大学あるあると思われるエピソードが絡み、笑える箇所多数。作者の出身校でもある京都外国語大学を舞台にしているのか、「京都の民家の暗さ」について書かれたくだりに超共感した。そんなコミカルな描写の中に、言語、外国語、アンネ・フランク、民族、国籍、アイデンティティ、というテーマ群が織り込まれ、前回は「重いテーマをこんなにあっさり扱っていいのか?」と感じたが、今回は、「一見軽いお話の中に大きなテーマが上手く埋め込まれている!」と感じた。だが、アンネの「密告」と、乙女が乙女であると言明することが重ねられているあたりは、一番大事なところなのにやはり上手く掴みきれず。自分の罪を告白するのでなくて、潔白であるという真実を言明する、という行為の意味は? その出自を罪として告白させてしまった「破戒」の道を避けたお話なのやろか? と思ったり。

余談: 作者の他の作品も読みたくなって検索したら、2017年に42歳で亡くなっておられたことを知った。知らなかった……。そして『WANTED!!かい人21面相』を読んだ。グリ森事件も京都の子であった私には思い入れある事件である。この作品では、「京都の子どもにとっての大阪へ出るということ」を描いたくだりに激共感した。ここでもまた、『乙女の密告』同様女の子たちの少女漫画的かつユーモラスな世界が今度はバトン部を舞台に繰り広げられていて愉快であったと同時に、やはり「他者」や「証言」というテーマが繰り返されていて、『乙女の密告』では、あるコミュニティの中で「他者」とみなされる恐怖が書かれていたが、こちらでは、「他者」は、コミュニティの者たちが外部に求めてつかめないものとして描かれていた。