続続・芥川賞ひとこと感想日記(1999-1990)

芥川賞受賞作を遡って読んでいる感想の続き。90年代の分です。

2000年代:続・芥川賞ひとこと感想日記(2009-2000) - 京都ぬるぬるブログ2.0 (hatenadiary.jp)

2010年代以降:芥川賞ひとこと感想日記(2022-2010) - 京都ぬるぬるブログ2.0 (hatenadiary.jp)

 

 

玄月『蔭の棲みか』(1999年下・第122回)

リンチの場面があからさまに痛そうで凄惨で、それに気を取られる読者――この世界を「異文化」のように思って読んでいた「日本人」読者(私)は、うっかり、最後に登場する日本の警察権力という圧倒的な暴力をスルーしてしまいそうになる、という仕掛け。ソバン爺が、これまでいろんな文学作品で出逢ってきたような、好きなタイプの爺さんやった(私はお爺さん好き)。

余談:一緒に収録されている「おっぱい」もよかった。異なるバックボーンをもつ男女が「いろいろあったけど新しい命を育もうね」的に融和へ向かうオチかな……と思いきや予想外のパンチでラストだった!

 

 

藤野千夜『夏の約束』(1999年下・第122回)

「重いテーマを軽妙な筆致で描いた」みたいな感想がいっぱいありそう、と思って、「重いテーマ」というのはゲイのカップルである主人公らが受ける差別(わかりやすいそれだけでなく今でいう「マイクロアグレッション」のような事象も描かれる)のことだけれど、そうした描写は本来もっと「重く」書かれるはずだという先入観がわれわれにはあって、でもそれが軽妙に描かれているということは、それが彼らの日常の中の当然のひとコマになっていることも示すんやなと思った。いつもガラガラなのでガラガラ寿司と呼ばれている回転寿司屋、とかいうディティールが好きだ。「きょうだい児」(という言葉もこの頃あまり言われてなかったと思うけど)である菊ちゃんが気になった。

余談:この年の受賞作は両作ともマイノリティを中心に据えた作品だ(エスニックマイノリティ、セクシャルマイノリティ)。慎太郎の選評はなんぼ90年代でも時代遅れの言葉遣いであったのでは?と感じるが当時どう受け取られたんだろう。

 

 

平野啓一郎日蝕』(1998年下・第120回)

受賞当時に読んだ。今読んだらもっと分かるかなと思ったが「辞書引く回数がちょっと減った!」というしょぼい成長を感じたのみ。私は「あるある」的理解ができる作品や私小説的作品にテンションが上がりやすく、こうした高踏派的(?)作品は読み方がいまいち分かっていない。舞台やモチーフは幻想文学っぽいのに、幻想文学というジャンルでもなくて、作者の嗜好の表現というのでもなさそうだし、不思議な作品! 「反対物の合一」による世界の変容、「秩序の外の秩序」の存在可能性、というテーマ自体を作者が訴えたかったというより、そういう世界を言語で作れるという認識を作る、みたいな小説なのかな~~? 三田誠広が本作を、「どこがよいのかよくわからないし、何を書いてあるのかもわからないけれども、まったくダメだと決めつけるのも難しい、というような不可解な作品」の系譜と表現していて、そんな正直な表現ありなんや~~! と思った(https://shosetsu-maru.com/rensai/mita-masahiro-64 )。

 

余談: 当時、現役京大生の受賞ということで話題になっており、京大文学部生だった従姉が親戚たちに「法学部の人かてとらはったんやから、あんたも芥川賞とりよし」と言われていた(※うちの親戚はやたらカジュアルに芥川賞を勧めてくる)。当時、平野さんは、「茶髪の京大生」ということでも話題になっていた。今や珍しくもなんともないが、未だ茶髪が不良のものである時代だったのだな~~。うちの学科の先生は茶髪の学生を一律に「ヤンキー」と呼んでいた。

 


花村萬月ゲルマニウムの夜』(1998年上・第119回)

連作三篇を通して、羞恥と色彩と嗅覚の小説。艶やかな純白に網目状の赤を纏った精巣、豚の死体の薄汚い黄色、腐りかけたミルクのような蛆……という色彩描写の一方で、嗅覚は、文章で描写するのが難しいもののひとつだと思う。たまたまこれを読んだ頃「匂い」について考える機会が多く(ゴミ屋敷清掃を手伝うなど)匂いって常に予想を体験が上回るなと思ってたとこだったのだが、本作は、その「匂い」をどれだけ文章で喚起するかという試みのように感じた。豚の糞、鶏の糞、蛆の湧いた動物の死骸の腐敗した匂い、足の指の股にたまった垢の匂い、性器の匂い……そんでそうした身体性や物質性と結びついたものを聖と対置させる、というのはよくあるけれど、本作では、院長との問答の中で、「匂い」は人の脳の高等な部分と関係づけられ神様と関係づけられてもいる!

 

藤沢周ブエノスアイレス午前零時』(1998年上・第119回)

片田舎の雪に埋もれた温泉旅館、そこで行われる中高年たちのダンスの催し、主人公が出遭った耄碌した老女、何が起こるでもないけれど「読ませる」というのがぴったりな文章やった。「胡蝶の夢」みたいな、あったかもしれない人生の複数性みたいな話?

 

目取真俊『水滴』(1997年上・第117回)

沖縄を舞台にした作品。写実と奇想の間の民話のような設定、水を売って儲けようとする「清裕」のようなダメなキャラクターは好き。最後ちょっとドタバタすぎな感じも。本作にも一緒に収録されている「風音」にも戦時の記憶が描かれるが、登場人物たちは、公的な歴史の中では語られないような個人的な分かりにくい後悔に囚われている。

 

辻仁成『海峡の光』(1996年下・第116回)

辻仁成って自分に合わなそうと思ってたら面白かった! 「人間関係あるある」であるところの「主と奴」みたいな話で、好きなテーマ。看守である自分は受刑者を一方的に支配する立場にあるはずなのに、逆に受刑者である「花井」によって見られ支配されているような畏怖。看守としての立場はあくまでも、制度によって隔てられているだけのもので、実際はただの一個の不安定な肉体であることを浮き彫りにする受刑者らの雑魚寝。「花井」は単に軽蔑すべきいじめ加害者なのか崇高な人物なのか分からず、分からないからこそその幻影に囚われ続ける。――これはまさに自分の卓球部体験やなと思って読んだ。というかだいたい何を読んでも卓球部体験を思い出す。卓球部体験ってめっちゃ文学やったんやなあ。

 

柳美里『家族シネマ』(1996年下・第116回)

奇妙な年長の陶芸家の男は、家族という居場所のない主人公の居場所になりえそうで、しかしその場所もやはり違う人に占められている。「千石イエスはいなかった」みたいな話だと思った。犬のくだりつらい。

 

余談: 柳美里は高校生の頃にいくつか読んだ。当時、柳美里の「自殺」』というエッセイを読みかけのままなんとなく部屋に置いていたら、母親に「あんた、あの本はわざと私らに見せるようにあそこに置いてるんか?」と言われ、そんな意図は無かったのであるがそう言われるとそんな意図があった気もしてきて気まずくなった、という思い出がある。今思えば、母はなぜそんなふうに思ったのだろうか。

 

 

川上弘美『蛇を踏む』(1996年上・第115回)

これも受賞当時読んだ。「エッチな小説」という記憶があったが、べつに露骨にエロなシーンはない。高校生(当時)のエロアンテナが過敏すぎたのか、あるいは、作品全体に漂う官能性を正確に感知したのか。ただ、気持ちのよい官能性ではない。母を名乗る蛇と主人公の攻防ともいえない攻防の、「ここで屈してはいけないと思った。思うがかんたんに屈する。屈したいから屈するのだった」とある「屈する」という表現は、人と「肌を合わせる」ときの記述にも用いられている。異種間の交接であり母娘相姦のようでもあるという二重のタブー感で、前エディプス期に強制的に送り返されるような気持ち悪さがある。

 

■ 又吉栄喜『豚の報い』(1995年下・第114回)

何か「天然」という印象を得たのは、登場人物は「トラウマ」と呼びうるであろう傷をもっているが、その語り方が一般的なトラウマ語りっぽくないからか。「豚の報い」という因果論的タイトルに反し、トラウマ的なひとつの因を設定してそれによって果を説明することをしない、登場人物たちが「なんでこうなったか」を語り合う終盤の場面では、「もとをいえば何々がこうしたから」「それはもとをいえば誰々のおかげ」というように次々に因果が連鎖していくんだけど、結局もとの因はなんでもよくて、そもそも最初の豚の闖入がわけがわからないハプニングであるし、その後の報いは全部下痢で流れてしまう。

余談:下痢小説といえば『細雪』(下痢エンド)を思い出すけど、他にも何かあるかな。

 

保坂和志『この人の閾』(1995年上、第113回)

保坂和志って自分にはちょっと理知的すぎて…と思っていたけれど、これは読んでいるうちに面白くなって引き込まれた。筋自体に大きな起伏があるわけでないのにすごい。最初のほうは、主人公と「真紀さん」の微妙な距離に比例してか私もまだ彼らと距離があったのだが、彼らのおしゃべりが弾んでくるとともにこちらも夢中に。人々の話を聴いて「ほう、そういう考え方もあるのか、そういう考え方も可能なんやな」とか思う、対談本を読むときの面白さに似ていた。犬がちゃんと犬らしくかわいい。

 

余談:この年は車谷長吉「漂流物」が候補になりながら受賞を逃している。その後に書かれた「金輪際」の丑の刻参りの場面は(一部で)有名。車谷ファンの間では、「車谷作品は暗い世相に合わないとして保坂の作品が選ばれた」という話として有名だと思うが、これって本当なんかな? 選評を見る限りはそんなことは書かれていないようだけど……。

 

■ 室井光広『おどるでく』(1994年上・第111回)

ずっと気になっていてやっと読んだ! すごくよかった~~~! 自分的には90年代で一作選ぶならコレ!!! しかしよかったが紹介しづらい!!自分も理解できてない! 膨大な知識の裏付けがあるんだろに連想で連なってゆく謎の繰り言は「シニフィアンの上滑り芸」みたいな味わいで、スマッコワラシ(すみっコぐらしぽい)、おいなしっぽ、おんぞこない、と書き言葉になりそこねたようなおどるでくオドラデクの仲間ぽいものたちが続々でてくるのが動物パーティーみたいやし、地方(会津?)の言葉がさまざまな世界の言葉とつながってゆきもしその固有性に断絶されもする。ぜんぜん理解できてないけど、二回目は図を書きながら読んでもうそれだけで楽しかった~~~!! 図の一部をupしときます。

余談: 本作は、芥川賞受賞作であるにもかかわらず文庫化されていない珍しい作品だったが、2023年についに文庫化された!! うわーい!!これで人にすすめやすくなるっっ!

 

笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(1994年上・第111回)

「海んぬ浴槽なあせびのかたちむは広くつぶらやかなねり具合にあふれさぶりな、ひかり正純……」「白くながめ板晴魔さす流れにらり、少年の乳房、わもはれりよ、マグロへの愁触る……」。この作品と『おどるでく』が同時受賞って、この回はなんなんや! ゾロ目だから?「海芝浦」は秘境駅マニアには有名な実在の駅。

 

奥泉光『石の来歴』(1993年下・第110回)

わけわからんまま投げ出されるような文学作品も好きだけれど、こういう端正に作り込まれた作品も好き。語り物のような文体もどんどん読めてしまう。いくつかの洞窟が登場し、洞窟内の記憶はあいまいなまま封じられていてそのまま抑圧の比喩になっており、いくつもの喪失(主人公はそれを明確に喪失と認識してもない)の後にやっと洞窟の奥へと進むことで、最初の洞窟で戦時中に聴かされた上等兵の言葉が光の中にもたらされる。作中に現れる石の標本や石についての著作は、そのまま文学作品の比喩のよう。途中までは、現実からの逃避として現れるそれは、ラストで現実を止揚する一段深い結晶に。


 吉目木晴彦『寂寥郊野』(1993年上・第109回)

妻のアルツハイマーに心的な原因があるのだと信じようとし、それを取り除こうとする夫の抵抗がリアル。症状を通じて彼女がこれまで移民として生きる中で受けてきたストレスが見える。アルツハイマーそのものはただの脳の過程でも、その表れ方に、その人の過去や実存が関わっている。リチャードがどのように妻の認知症を受容したのかは明確に描かれないが、「ユキエが記憶を失えばその分だけ、私が一人で、他に誰も知る者のない、あるカップルの物語を抱え込むことになる。そして、その物語が本当にあったものかどうか、誰に確かめることもできないのだ」というのは、あらゆるつがいの普遍的な淋しさかも。

余談:アルツハイマーを心因だと思い込もうとするというのは、今だとピンと来ないかもだけれど、認知症への理解が一般的に進んだのって案外最近なのかもしれない。2000年代に「痴呆」から「認知症」に呼び名が変わったので、その頃に諸々整理されたのか。「自閉症」もずっと意味を誤解されたり心因とされたりしていたし。

 

 

多和田葉子犬婿入り』(1992年下・第108回)

既読だが、同時収録の「ペルソナ」と合わせて読むと、異類婚姻譚の形を借りたマージナル・マンの話であるとはっきり分かった。ラストはなんとなくペアができて終わる感じにはなっているけれど、「子のいない女が捨て子を拾って疑似親子ができてめでたし」みたいな感じではなく、みつこの扶希子への接し方のエロティックさも込で不穏。それはそうと「みつこ」は「変人の中年女性」のひとつのモデルになるかも? 私もこうなれる……か?

 

藤原智美『運転士』(1992年上・第107回)

異様に秩序愛の強い青年が主人公。職業選択の基準が「あやふやで余計なものが入りこむ余地があるようなものはリストから排除した」「出退勤を含む仕事のすべてが、時刻によってきちんと設計される」ってのが、私(できるだけすべてがあやふやなほうがいい・毎日時間が規則正しくないほうがいい)と真逆だ! そんな主人公の諸々のこだわりが職業小説の形で書かれるところがまずは面白く、そしてその秩序愛における異物が鞄の中の謎の女性像なのであろうが、それが「秩序/非秩序」「無機/有機」「理性/自然」「男性性/女性性」のような二項対立の後者を担う役割として解説できそうであるのに比べて、突然登場する「ばかでかいコピーマシン」の存在が意味不明で良かった。

 

松村栄子『至高聖所(アバトーン)』(1991年下・第106回)
 センター試験に使われて或る種の者たちをのたうち回らせた「僕はかぐや姫一作で松村栄子は特別な作家だけれど、この作品はずっと未読だったのでこの機会に読めてよかった。叙情と硬質さの合体がその世界の魅力で、本作では硬質さがそのまま「石」のモチーフに込められ。大学が置かれている舞台の描写が作中で一番好きかもしれない。終盤はあまりピンとこなかったが、姉の裏切りと夢の中での赤ん坊としての再生というのは、なじみ深い帰着点である気がする。バナナブレッド的な。
 


辺見庸『自動起床装置』(1991年上・第105回)

宿直者を起こす「起こし屋」のバイトたちの話。挿まれる植物の話がファンタジー的な趣きを醸しつつも、「運転士」同様、プロの仕事を描いた職業小説的な面白さがある。「自動起床装置」は、架空の装置かと思ったらほんまにあって鉄道会社とかで使われていると知り、自分がいかに起床と無縁の生活をしているかを思い知った。


余談: 受賞作をこうして順番に読んでいると、近い時期のものはテーマが似通っていたりふと掠っていたりすることがある。「至高聖所」も後半は眠りの話だったし、「運転士」にも運転手が乗客を起こすことについて書いた部分があった。3回連続で眠り&起こし小説が受賞していることになる? 昔に大学の研究室の先輩が「同期の子たちは毎年、全然違うことをやっていても論文のテーマになんとなく共通性がある」と言っていたけれど、そんな感じなのかな。


 

荻野アンナ『背負い水』(1991年上・第105回)

都会的で知的だが恋愛関係が難儀な女性の自虐風味饒舌体。ちょっと前なら「負け犬」、最近やと「こじらせ女子」の系譜? 父娘小説でもあった。ラスト、男を狙うときの主人公が別の男と同一化しているのが面白かった。

余談:そういえばこの作者のブタグッズコレクションを紹介した本を持っていた。

 

小川洋子『妊娠カレンダー』(1990年下・第104回)

既読。妊娠した姉への妹のひそかな悪意、幸福な日常にひそむ狂気……みたいに語られており、私も前回はそういう作品として読んだが、今回読むと、妹と姉はむしろ共犯なのでないかなと感じた。姉もまた、自分の腹の中で起こっていることを現実感をもって考えられない人であり、胎児の存在を恐れる女性である。この姉妹は、現実感のなさや生殖への悪意で結びつく、そういう絆の同志なのでないか。

生殖こじらせ小説といえば河野多惠子を思い出す。河野の「解かれるとき」という小説は「自分が障害のある子を産む」という空想を経て初めて生殖を受容できる女性の物語であり、本作の「破壊された染色体」 ――身内に染色体に欠損がある者をもつ身としては結末を平静に受け入れられなかったということを選者の一人(三浦哲郎)が書いており、同様のひっかかりは私にもあったのであるが―― ももしかすると、そうした、現実感に接続しようとするツールとしての空想的欠損なのやろか。

 

余談:主人公がホイップクリームの試食販売」をする場面があり、私もまさにホイップクリームの試食販売をしていたので、「あるある」と思うて読んだ。この場面では、この小説もやはり「フード嫌悪小説」だなあということが分かる。地上の食べ物はすべて毒入りだ、というあの感じを思い出す。

余談2:レビュー見てたら「友達に薦められて妊娠中に読みました」というのがあった……! そいつはほんまに友達なのか。 なんで薦めたんや。

 

 

辻原登『村の名前』(1990年上・第103回)

中国のある村を訪れた日本人商社マンの実録とも幻想ともつかぬ世界。一行についてくる謎の凸凹コンビだけがアニメチックというかカフカに出てきそう。中国人たちは内面が伺い知れず、犬料理に象徴されるその風習は野蛮であると同時にそれを食べるとこちらまで変質してしまう力をもつ。今だと中国の村を舞台にこんなふうに書くのは難しそう。ポリティカル・コレクトネス的にというわけでなく、中国がずいぶん「現実」のものになったし奥地の村でもインターネットで検索するとふつうに観光サイトが出てきてしまうし……と思ったけれど、今でも別に京都を魔界として描く作品とかたくさんあるんだった。