年末企画★微妙に昔のベストセラー読み倒し: 膵臓、セカチュー、KAGEROU、恋空

毎年、クリスマスに何か企画をやるんですが、――といっても誰も参加しない自分内企画なんですが――ちなみにこれまで最も盛り上がったのは2003年の「徹夜でプリッツ食べながら楳図かずお」企画(画像参照)なんですが――この頃は徹夜する体力があった――今年は「微妙に昔のベストセラー」を読む企画としてみました!


(↓2003年のクリスマスの夜。色々ひどい。くまは、この頃いろんなとこに連れ歩いてたやつ。)



仕事の中で、若い人に愛読書を教えてもらう機会があるのですが、今年複数の若い人から 『君の膵臓をたべたい』という小説を勧められ、いっちょ読んでみるか、となり、ほなついでに昔流行った諸々も読んでみるか、となったのでした。
読んだのは、(読んだ順番に) 『君の膵臓をたべたい』(2015)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)、『KAGEROU』(2010)、『恋空』(2005→2006) の四冊。以下、大いにネタバレしておりますので(そんな人はあまりいないかとは思いますが)これから読む予定の方はご注意を。



住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉社、2015)



今回の企画の発端。もともと書店でタイトルを見かけて気になっていたところへ、複数の人から勧められ、「もしかしたら面白いのかな?」と思って読んだわけですが、感想は、うーむ……という感じでした。「病気ヒロインもの」なのですが、諸々ありがちであり、かつなぜ膵臓の病気なのか必然性が分からず、うーむ……。いろんな小説を読んでスレてしまったのかもしれません……。
文体は、ヒネた少年の一人称小説で、プチ村上春樹のような印象。少年は他人に興味がなく人の気持ちを推察できない子という設定なので、その設定での一人称でありつつ作者の神の視点がどうしても入り込んじゃうあたり、小説を書く人はこういうところの処理に苦労するんやろなあと思いながら読みました。
前半は、高校生のプチ村上春樹男女が「おしゃれ漫才」のような会話をするのに疲れてしまいました。
しかし、「わわっ、ありがちあるある、強制同室イベントキター!」などとあるあるしながら読んでいたら、終盤近くの展開だけはちょっとびっくりしました。(これについては後述)


片山恭一世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館、2001)



膵臓」を読んだのでこれも、ってことでセカチュー。なんと、もう16年も前の作品なんですねえ。映画も観てないですが、なんか人がいっぱいいるところで男の子が叫んでるシーンだけ知ってたので、「これがそれかー!」という感じでありました。
とりあえず最初の感想としては、うちならなんぼ彼氏でも、着替えもなんの準備もない状態で騙し討ちで無人島連れてこられたらしばくぞ、というところです。のんきに「必殺うな玉丼」作ってる場合ちゃうぞ!


さて「膵臓」も「セカチュー」もいずれも「病気ヒロインもの」ですが、連続して読むと、相違点・共通点が諸々あって面白かったです。
まず、いずれも、斜に構えた思春期男子の一人称である点。特に「セカチュー」は、ラブホテル街での「どんな種類のホテルであるのかも、理解しているつもりだった」(p.77)という言い方とか偉そうに社会について熱弁するところとかが、いかにもその年頃の面倒臭い男子っぽくて、ほんまにイラっとさせられますね。(作者の他作品を読んでいないため、それが語り手のキャラによるのか、作者の地の文体なのかは不明。) あと、両作品とも、やたらヒロインの「甘い匂い」が描写されるんですがなんなんですかね……。なんかの決まりなんでしょうか。

だが、セカチューのほうがいくらか「文学」っぽい体裁が整っている印象です(「文学」ってなんだろう、というのはおいといて)。地方都市ぽい舞台の地理がしっかり設定されていたり、それらしい病気の描写がちゃんとあったり。一方「膵臓」は、ほぼ、少年とヒロインのエスプリの効いた(と読者が感じるであろうと想定されていると思われる)会話のみで進行し、外界が書き割りのようです。
「朔太郎」なる名を与えられた「セカチュー」の少年が、島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』なんて渋い本を読むのに対し、「膵臓」の少年が、志賀直哉村上春樹を足した名を与えられていて(最後に明かされる)、アイテムとして出てくる文学作品も、太宰治だとか『星の王子さま』だとかポピュラーなものであるのも、対比として象徴的でありましょう。「膵臓」ヒロインが現代的不思議ちゃんであるのに対し、セカチューヒロインがやたら古風で大時代的な喋り方するのも。


というように、「膵臓」は一見「セカチュー」の縮小再生産なんですが、一方で「セカチュー」的なもののパロディをやろうとしたんかな?というフシもあり、それが唯一ちょっと面白い点でした。
作中、「死にかけの恋人が病院から抜け出して途中で死ぬって、お約束だから皆許してくれるよ」(pp.184-185)という自己言及的セリフがあるんですが、その「お約束」に反して実はヒロインは病気では死なないのです。というか、作者はこの展開がやりたかったんやろうなー、「ありがち」はそのためのメタありがちやったんやろなー、と思いました。
というような話を若い人にしたら面白がられたので、まあよかったです。てか、今の若い人、もはや「セカチュー」を知らないんですね……未だにセカチュー=若者文化 だと思っていた俺よ……。


それにしても、古くは『愛と死をみつめて』とか『ある愛の詩』とか、時代を超えて、「死んだ恋人」の物語は人気を得ますね。
それは、誰にとっても、青春や青春時代の恋愛は「死んだ恋人」のようなものであるからかな、と思います。もちろん、実際に恋人が死んでしまうこととそうでないことは全然違うわけではありますが、しかし私も含め皆が、青春時代の一部分を死んでなお心に生き続けるものとして悼み続けているのではないでしょうか。
いずれの作品でも、ヒロインの死後、残された少年らは生や死や命について気づきを得たり、自己成長を得たりします。メタ的作品である「膵臓」でもそこは結局ベタです。「セカチュー」では、ヒロインの死後、少年の祖父が「人生の美しさの正体は実現しなかったことにある」というようなことを説くのですが、こうした思い、つまり「そうありえたかもしれない人生(でも選択できなかった人生)」への哀悼の思いは誰もが抱いているところでありましょう。
そんなこんなで「死んだ恋人」の物語は、誰が書いても一定の説得力や熱量を持ち得るし、意地悪な見方をすれば誰が書いても共感や感動を呼ぶのが容易く、意地悪でない見方をすればオリジナルな物語を打ち立てるのは至難であるのだろうなあ、と思うたりしました。







●齋藤智裕『KAGEROU』(ポプラ社、2010)



もう誰も覚えていない気がするけど、覚えておいででしょうか? ていうか私も忘れてました。水嶋ヒロの話題作です。これももう7年前。誰もが忘れた頃に読んでやろうと目論んでたんですが、自分も忘れてしまってました。

当時、受賞が八百長では、とか、本人が書いてないのでは、とか色々騒がれましたが、そのへんの事情は分からんので措いときます。
しかし、ゴーストライターを使うなら、もう少し上手く書くのでは? また、もうちょっと、イケメン俳優のイメージに合わせるのでは……? という気はします。以前、斎藤美奈子だったかが、「処女作は、作者と同じ年代・性別・立場の主人公を設定しがち」と言っていた記憶がありますが、この主人公はオヤジギャグを連発する冴えない中年で、水嶋ヒロのことはよく知らんのですが、たぶん本人のイメージとは程遠いと思われます。無垢な少女に恋(?)をするくだりなども、いかにもオヤジの幻想という感じです。

ストーリーは、ゲーテの『ファウスト』のしょぼい版という感じ。自殺未遂した主人公がメフィストフェレス的なやつと契約します。
社会派小説を意図していると思われるのに、「飛び降り自殺は家族が掃除させられる」という適当なくだりとか、類型的すぎるキャラ「モーリー」の不用意さには、ちょっと怒りを覚えました。編集からの助言とか無いものなのでしょうか……?
正直、お話はあんまりおもしろくなかったんですが、ゼンマイ式の心臓のあたりは(カタコトの日本語しか喋れないのになぜか「ゼンマイ」というマニアックな単語を知っているモーリー……)、ちょい奇想的で、図を想像しながら読めました。中途半端に社会派を目指さず、オヤジギャグ的センスを前面に出してコメディ路線に振りきったらもっと面白くなるのかも?? しかしこれ以降はもう書いていないのでしょうか……?



●美嘉『恋空 切ナイ恋物語』(携帯小説魔法のiらんど、2005)




書籍版は2006年刊行ですが、2005年に完結した、ケータイ小説の形で読んでみました。(数々のミスは書籍版では治ってるのでしょうか。)
これも「死んだ恋人」ものではあるんですが、全編を読了して残ったものは、なにか生命力のようなものとでもいいましょうか……。

まず、かなり長い! 主人公が高1から20歳までのお話で、前半は過去を回想する形で書かれ(素っ気ない描写の中で「PHS」に関する説明だけ妙に詳しいのが面白い)、物語終了時点で2005年という設定。その間、次々新しい友人や新しい男が登場し、途中から、源氏物語みたいなものとして読めばいいのか、と気づきました(違う??)。
センセーショナルなことが次々起こる小説だと聞いていましたが、たしかにさまざまな事件(レイプ事件とその復讐、流産、家庭崩壊の危機、友達とのいざこざ、進路の悩み……)が起こるのでありますが、なぜか陰鬱でなく、すべてがあっさり彼氏とのラブラブに回収されていくのがすごい!


しかし、こうしたケータイ小説って「文学」的視点からはバカにされがちではありますが、それだけ読まれたということは、一定の人にはリアリティがあり、かつ、ファンタジーに訴えかけるところがあったのであろうと思います。そしてそのリアリティやファンタジーが、これまでの「文学」のそれとは違った、ということなのでしょう。
私が、ここが最大の人気の理由だったのではないかな、と思ったのは、時の彼氏がいちいちキュンとさせるようなカッコイイ台詞を言うところ。定型的台詞ではあるんだけど、日常でいちいち決め台詞を言うのです。乙女ゲー(やったことないけど)みたいな感じというか。(しかも割とジェンダーロールに則った決め台詞であるのが面白いところですが、この話は長くなるので割愛。)
特に、やたら「お前ちっちぇーな」だの「そんな小さい体で悩みを抱えて」だのと、主人公が小さいゆえに可愛がられたりからかわれたり労わられたりしまくるのは、チビのナルシシズムに訴えかけてきます。


文章は、小説というより「台詞とト書き」みたいだし、文法や慣用句のミスも多いし、つっこみどころもありまくるし、それにつっこみを入れながら読むのも面白いといえば面白いのですが(つっこみに特化したブログもあり、つっこみ欲をそそる作品ではあります)、ケータイ小説というのはたぶん、そういうことを気にして読むものではないんでしょうな。
むしろ、前半から後半に進むにつれて、だんだん著者が上達しているのが分かるのが面白かったです。前半は、完全に「台詞とト書き」のような文章で、また、何か謎が生じてもすぐ数文のうちに解けてしまうってガクッとなるんですが(「ヒロの好きな人は誰?」→「私だった!」、「いたずらメールの主は誰?」→「モトカノだった!」など)、後半では、謎が引っ張られたり伏線が張られたり。風景描写も前半は味気ないけど、後半では、風景描写に心情が投影される的な技法が使われたりとか。
そーやって、著者が書き進めるのと同じリズムで読んでいくんがケータイ小説なんかなー、とちょっと解った感じがします……しかしまだケータイ小説ってあるんかな??

そしてここだけはつっこみを入れたい! クリスマスの料理作りすぎじゃないのか!エビチリ、唐揚げ、サラダ、寿司、ケーキ、さらに肉じゃがて! 二人で食いきれるのか!コンロは何口あるのか!それと、高校の修学旅行。ディズニーシー→USJ→京都→広島 というすごい移動距離! ほんまにこんな修学旅行あるんかな? 遊園地二つ必要なのか! 何においても全部載せやな!! そうか、それが「生命力」を感じる理由なのか。


というわけで皆さま良いお年をお迎えください。