前回の続きです。前回は2010年代と20年代でした。今日は2000年代です。2000年代前半になると「ひと昔前」感を覚えますね。当時新人だった人が今はベテラン作家やったり、作中に描かれる時事や小道具が懐かしいものであったり。今回も、再読のもの・初読でおお~と思ったもの・初読でピンと来なかったものなどいろいろなので感想に粗密ありますが(いや全部粗なのですが)赦してね。
前回:
■ 磯崎憲一郎『終の住処』(2009年上・第141回)
配偶者という他者がブラックボックスとして書かれていて、その内面を理解しようとする際に、自然な了解でなく推論式の理解の仕方しかないのが面白かった。主人公に次々女が現れるところは島耕作みがあった。
■ 津村記久子『ポトスライムの舟』(2008年下・第140回)
津村記久子は一時期よく読んだが本作は未読。氷河期世代の実家暮らし、異なる世代にはちまちました話に見えるかもしれないけど私にはリアル。世界一周のポスターに反してどこへも行けないような閉塞感があった(自分の閉塞感を投影してるのかもだけど)。そんなつらみを、女たちの関西弁と古都という舞台が緩和してくれはするが(奈良を観光したくなった)、彼女らの絆がべつに完全な理想郷として描かれるわけではないし「いい話」になりそうでならない。ところで『八番筋カウンシル』を読んだときに、家を離れて働く勤め人の主人公から見て自営業者たちは得体のしれぬ「他者」のように描かれているのが(自営業者の子である自分には)印象的だったのだが、この作品では、主婦におさまった友人がその位置にあるように思った。
■ 楊逸『時が滲む朝』(2008年上・第139回)
天安門事件前後の、民主化運動渦中での学生生活とその後の物語。前半はどこか懐かしい青春小説のような。「非日本語ネイティブが書いた日本語小説」というこちらの先入観のせいもあるんかもやけど、登場人物の心情に複雑な葛藤などが描き込まれないシンプルさのためかも。真面目でシャイな主人公、野性味をもつ好青年の親友、英語かぶれの先輩、革命の女神、というキャラたちは好感をもてる一方わかりやすすぎるような気もした。尾崎豊「I Love You」を聴くところがよかった。尾崎を引用している文学作品は他にもあるのでないかと思うがこの作品はぴったりだ。
余談: amazonレビューを見ると、中国への偏見しかないレビューとかがあってうわあ……と思った。作中には「国への愛」と「政府への愛」がけっして同一ではない複雑さとかも描かれてるのに。でも昨今は作者もHanadaとかで書いてることを知った。
■ 川上未映子『乳と卵』(2007年下・第138回)
自由なようで完全にフリーな口語関西弁とは違う、書き言葉関西弁みたいなものが発明されており、吸われてしぼんだり内に孕んだり、外部と接続してはふくらんだりしぼんだりする身体を描写するのに、その文体がぴったり。 「巻子」の乳論はもっと聴きたい思いも残るけれど、それを自分で充分に語れないのが彼女が身体改造を目指すゆえんなのかもしれない。テーマ的に絶対読んでそうなのになんと未読だった。
■ 諏訪哲史『アサッテの人』(2007年上・第137回)
好きーーー!!!なんで今まで読んでへんかったんや!!? 同じ著者の他の作品も読んですっかりファンになった。メタにメタを重ね(いやあとがきでの作者の言葉を借りるなら小説とはすべてメタフィクションだが)小説の自立性とは?語り手とは?書き手とは?を次々問うような作り込まれた導入に、「面白そうやけどこれはしんどいな~、こんなに意味で雁字搦めになってしまったらたしかに『ポンパ』みたいな無意味を入れんとやってられんというわけやな」と思っていたら、まさにそのポンパをめぐる物語だった。以下特に好きなポイントを書く。
1)一見奇矯であるがミソり族であるわれわれには「あるある」の小説でもあり、一冊かけて日頃のそれらを説明してもらえたような気持ちよさがあった。私にもポンパのようなものがたくさんあるし、たとえば私の母には「ポチョムキン」があり、ポチョムキンの由来および用法はほぼ本作のチリパッハに同じである。われわれにとって虚無語(ポンパとかもよもよのようなものを私はそう呼んでいた)はお守り言葉のような面もあり、そしてお守りであることと症状であることは互いに排他的ではない。言葉の奔出が言葉の出なさ(吃音)と表裏一体になっているのもよく分かる。
2)意味内容から遊離してしまったシニフィアンの快楽というのか、それを味わい続けることができた。私もこれまで「しろうるり」や「こかびのに」にとらわれ魅せられてきたし、これまで最も楽しかった遊びは、家族でやった「無い言葉しりとり」である。さらに架空の文字を集めた本とかこかびのにについて論じた論文とかの虚無の体系化が好きなので、そうした愉しさが全編にあった。えなりるわっほなう の種明かしが衝撃的だった。
3)一方で、無意味を志向しそれでも意味から逃れられない雁字搦めが描かれていて、ダダイズム運動の終焉を連想するなどした。作為という無意味の隘路も。古典的な難題だと思う。「ポンパをやめよ。ポンパをやめよ。ポンパを呟くことをやめよ。ポンパはすでに使い過ぎた。ポンパをやめよ。ポンパを投げ捨てよ」。
講談社文庫で絶版になってる『りすん』などもぜひ復刊させてほしいです! よろしくお願いします。タポンテューがいちばん好き。
■ 青山七恵『ひとり日和』(2008年下・第136回)
フレッシュな感じ。でも盗品の話で一気にスリリングになった。盗品は作中において象徴的存在でもあるが、やはり物語は、「普段人に言えないようなちょっとした不道徳」が描かれるとそれだけで面白いと感じてしまう。「若い女の子の成長物語」に見えて、最後、ろくでもない予感しかしない感じで終わったのがよかった。
■ 伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』(2006年上・第135回)
水城さんとのトラック道行きは、汗と埃と煙草の匂いがするようで生々しい。かつ軽妙な文体が良い。知恵子とのゴタゴタ離婚パート――夢をもつ男女が一緒になって、どちらかあるいはどちらもが夢を捨て、生活の中でぎくしゃくして……というのはドラマティックだけどリアルあるあるで、「リアルだ!迫力あるな!」と「わああん、こんなリアルはお腹いっぱいや~~」が交互に訪れた。
余談: あろうことか、読むまで『九月、東京の路上で』と混同していた。こちらも読まねばならない本だ。
■ 絲山秋子『沖で待つ』(2005年下・第134回)
仕事の話のディティールが面白かった。バブル期総合職の憂愁って、まともな企業で働いたことがないという個人的コンプレックスのせいで敬遠してしまう設定でもあるが。円盤を物理的に傷つける場面の厳粛さ、円盤のものとしての存在感が印象的。そしてタイトル回収に驚き。読む前はなんか海辺の町の話なんかな、と思ってた。予想できた読者はいないだろう。
余談: 本作は「ですます」体が採用されている。いつも気になるのだけど、作家が文体を選択するとき、どんなふうに選択してるんやろか。感覚的に自然と選ばれるのか、緻密に計算して選ぶのか。自分がいつも文章(小説ではないけど)を書くとき文体迷子というかどういう文体で書いていいか分からんことが多いので気になる。
■ 中村文則『土の中の子供』(2005年上・第133回)
暴力や恐怖やその反復。個人的にも興味深いテーマだが、全体を読み終えて、何かモヤがかかったような「土」の手触りに到達しないような感じを抱いた。それは、主人公の体験の壮絶さに読者(私)の想像が及ばなかったから? あるいは、時々感じた作り物ぽさのせい?(たとえばトラウマの因果関係の複雑さが描かれているはずなのに「死産で不感症に」という話だけ妙に通俗的な因果という感じがする)。しかしあるいは、「トラウマを語る」ということがそもそもそういう性質(「語り得ぬもの」的な)をもっているということなのかもしれん。などと思った。
余談: ちょうどトラウマ概念の歴史についての本(森茂起『トラウマの発見』)も読んでいたところだったのでタイムリーだった。読書に関してこういうことはよくある。
■ 阿部和重『グランド・フィナーレ』(2004年下・第132回)
書き出しの「パステルカラーの世界」の描写がかわいい! 書かれてなくてもメゾピアノだと分かる。砂糖菓子のふあふあの世界。主人公はどういったわけでこの世界に? 娘とどういう関係? と思って読み進めると、彼はペドフィリアであったことが明らかになる。が、ペドフィリアである彼のペドフィリア性についてはあまり語られない。それが主題ではないのかな。代わりに印象的に語られるのは、アメリカのテロ、ロシアの人質事件、といった世界情勢。とりわけ、過酷な状況の中で虐げられるウガンダの子どもたちの話はおそらく、主人公の子どもたちへの加害と主人公の中でつながっていて、それで物語の転換点になっているのだろうけど、その連なりは明確には示されない。子どもたちの運命における「サディストの神」という表現に、少しカラマーゾフみを感じた。その話もそれ以上ふれられないまま終わる。主人公もまた子どもたちにとってプチ神ということなのかな。
■ モブ・ノリオ『介護入門』(2004年上・第131回)
まず、普通に実用的で、その意味でタイトルまんまやった。具体的な介護の知恵(腰を傷めない方法とか)だけでなく、なるほど終わりのないケアの渦中にいるときってそういうふうに考えを転換することでがんばれるんやな……と。だが自分は祖母の介護にちょっとかかわっただけでかなり滅入った人間なので、その実践は一定の関係性が前提になければ難しそうと思うた。一文が長い独特の語り口の中にヒップホップ調(いや私はヒップホップのことを全然知らないのだが)が混じる文体はどっちかといえば好きで、会話文の関西弁も「こういう言い方するわ~!」て感じでいい。だが、この文体じゃなかったら普通の小説だったかもしれないな~とも思う。口で同情するだけで汗を流さない親戚ども、充分に働かない介護士への愚痴、ワイドショーや『踊る大捜査線劇場版』への悪口、家族の絆、など、この文体でない文体で読まされたらけっこう気の滅入る説教臭い作品だったかも。しかし文体も含めて作品だもんな~とも思う。「メロディや音はいいけどよく聴くと歌詞は凡庸、でもなんか好き」という歌ってあるけど、文体はそういう音楽の効果みたいなものと思う。
余談: 上記の通り私はヒップホップのことをなんも知らんのだが、山田詠美が選評で批判的に言及していた「YO、朋輩」(「朋輩」には「ニガー」とルビが振られている)の表現が気になっていたところ、この語に焦点を当てたこの作品の論考を見つけて面白かった。: 小倉恵実「モブ・ノリオに関するプロレゴーメナ」https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/17922/
余談2: モブ・ノリオってその後あんま書いてないみたいで、選評にも「介護という身近なテーマを離れてこの後どうするんやろ」みたいのがあった。芥川賞の役割とか文学の業界の持続性とかを考えると、たしかに継続して書くことができる人が求められるのやろけど、素人である私は、それがむしろふしぎな気がしてしまう。一作分しか言いたいことがなかったら一作書いて終わり、というのがむしろふつうなことに感じてしまう……。(モブさんは一作だけというわけではないけど。)
余談3:内田裕也による帯が虚無ですごい。「祝!? 芥川賞・文學界新人賞。/書いた奴もエライが/選んだYATSURAもエライ!/芥川龍之介も/少し笑っているだろう!/Rock’n'Roll!」
■ 金原ひとみ『蛇にピアス』(2003年下・第130回)
金原ひとみは一時期よく読んでいて、昔ブログにもなんか書いたな~と調べたらもう15年前の文章やった。
30kg小説としての金原ひとみ - 京都ぬるぬるブログ2.0
自身もダイエット病でありまた痩せた身体像の描き方というのが当時の関心事項だったがゆえに体重の記述に異様に注目しており、作者の体重を検索したりとか下世話であるが、「一般のイメージに反してどことなく少女趣味的」という印象は再読しても変わらずだった。「少女趣味」て言葉が正確か分からないが、ある種の古風さをそんなふうに感じたんだと思う。「ソープ」のくだりとか一見ハチャメチャな世界の中で妙に保守的だし、主人公は「アマ」と違って実は両親が揃っていることが(作品の筋と関係なく)わざわざ言明されて、実はちゃんとしたお嬢さんでハードボイルドな世界に訪れた「まれびと」的存在なのかな、と感じる(でもそのまれびと性は語り手というものの宿命なのかもしれない)。それとやっぱり、身体の棄損や変容を通じて世界と関わろう(関わるまい)とするあり方、身体以外に手段を持たないようなあり方が自分の中の少女性と重なったのだろう。だが、読み返すと、身体改造という一般的にはセンセーショナルなテーマが中心のはずなのに、それへの主人公の思い入れについては意外なまでに語られていないことに気づいた。饒舌な意味付けは無く「きっと、私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない」とだけ。前回いいなあと思った、アマとマキが主人公に「ギャルだし」とツッコミ入れるとシーンは今読んでもいいなあと思った。
■ 綿矢りさ『蹴りたい背中』(2003年下・第130回)
綿矢りさは、同郷で年齢が近いということもあってなんとなくよく読む。本作は受賞当時以来の再読。今読めばさんざんネタにされまくった「オオオカナダモ? ハッ」も新鮮だし「笑うってことは、ゆるむっていうことで、そして一人きりでゆるむのには並々ならない勇気がいるものだ」とか上手いこと言うなあ!と思う。当時は自分に近い世界すぎてむしろありきたりに感じてしまったのだ。にな川と主人公の関係も、初回読んだときは「ふーん」くらいだったけど、『勝手にふるえてろ』を経た今では、綿矢さんは、一風変わった人たちの間の名前のつかない関係、一種の崇高に近い関係を書くことにずっと興味がある人なんだな、と分かった。この頃はまだ「推し」て言葉がなかったが、そういう独特の関係は、萌えの時代を経て推しの時代になった昨今一般化した形で可視化されてるんかも。
余談: ところでこの作品の、私にとっての最も重要なところは、在りし日のプラッツ近鉄(がモデルと思われる店)が出てくるところ。近鉄百貨店時代ももちろん思い出深いのだが、プラッツ時代がいちばんよく行った。あの無印良品もよく覚えていて、吹き抜けのある広い売り場のレイアウトなど当時はとても新しくオシャレに感じたものだ。綿矢さんも同じように感じたんじゃないかな。 作家は自分の愛する(かどうか知らんが…)場所や街を作品の中に閉じ込めることができるのはよいなあと思った。
余談2: この年の受賞は自分と近い年代の同性二人だったのでよく覚えている。すごいなあと思うと同時に、若い女性というだけで「文学界のモー娘。」とか「話題狙いの賞」みたいな言い方をされていてなんか失礼やな~と思った。今でもそうなるのかな。
余談3: 綿矢りさ作品については、かつてブログで『勝手にふるえてろ』のことを書いていた。https://maternise.hatenadiary.jp/entry/2013/06/18/221323
■ 吉村萬壱『ハリガネムシ』(2003年上・第129回)
これも好みの作品。自分の好みと感じる作品って、だいたいダメな人間とか暴力的な場面とかが出てくるな……。「サチコ」の印象が鮮烈。「リストカット痕のある風俗嬢」という女性像は一見ひと頃よく見かけた定型のような気がするのに、「サチコ」像の重心は、何らかのロマンチシズムを託されるような儚さや傷つきでなくて、あくまでも、傷つかなさ、傷つけることのできなさにある。それと、主人公が日記を書く描写がたびたび現れるのが面白かった。性や暴力という身体の領域に対して、書くというのは言語の側に自分を保とうとする習慣のように一見みえるけど、その行為も、理性や思考によるものというより「自分の幼稚な字が好き」「要するに文字になれば何でもよく」と表現されているのが面白かった。あと虹色の米、「しゅぶるぶる」「もほもほ」がよかった。
余談:ネットで他人の感想を調べようとタイトルでぐぐるとハリガネムシの画像が出てくるので注意だ。
■ 大道珠貴『しょっぱいドライブ』(2002年下・第128回)
自分の好きそうな作品だろうなと思っていたのにあまり分からずだった。もう一度読んだら違うかな? 私は極端なものが好きで「微妙」な味わいを一読で味わう能力が低い。「微妙」というのはリアルということなのかもしれず、何か劇的なことが起きるわけでない田舎町の感じや、「としより」と呼ぶ男との恋愛と呼ぶには微妙すぎるつきあいや、特に楽しそうなわけでもない性描写や、主人公の女の打算的というほどでもない打算的さや。乾いてるのに乾き方のリアルさのせいでジメッとした印象を得る。
■ 吉田修一『パーク・ライフ』(2002年上・第127回)
これも一読ではあまりピンと来ずだった。アッパーミドルっぽい登場人物たちのアーバンな話が自分には馴染みにくいのかも……。後から考えると、俯瞰の視点(でもそれは実現されない)と本来見ることのできない内臓とが対比になってたんかな、とか、ヴァーチャルな旅と具体的な場所(産婦人科という生まれた地)がラストで一本に収束するのが面白いな、とか細部の仕掛けに気づいた。しかしやはり最も印象的なのはスタバ。「日本にもスタバ増えたよねぇ。私がロスにいたころは一軒もなかったのに」とか語る女たちを近藤さんはdisるが、もはや今では「日本にもスタバ増えた」と言う人すらいない。「たぶんみんなスターバックスの味が判るようになった女たちなのよね」「よく言うじゃない、これは子供を産んでみないと判らない、これは親を亡くしてみないと判らない、これは海外で暮らしてみないと判らないなんて、それと同じよ」と女は言うが、今や一億総「スタバの味が判る男女」であろう。
余談:これを読んでいるときちょうど、JRが大遅延で夜9時に家に着くはずが明け方帰宅になるということがあった。いつまで待てばええのかも分からん待ち時間の中でこの本を読んだことで助けられた。普段読みもしない本を何冊も持ち歩くせいで荷物が重いのだが、こういうときはその習慣がありよかったと思う。
■ 長嶋有『猛スピードで母は』(2001年下・第126回)
20年くらい読みたいなと思うており、やっと読んだ。表題作もよいが「サイドカーに犬」もよかった。タイトルがいい。物語中に出てくる風物からは、主人公たち(あるいは作者)が、私とほぼ同時代、正確には私より少し前、に子供時代を送っていることが窺えて、宝石屋のチラシやキャッスルホテルなどのディティールが懐かしい。 ふたつとも音楽が出てくる。表題作はビートルズの「She's Leaving Home」、「サイドカーに犬」はRCサクセションの「いいことばかりはありゃしない」。どちらも効果的に使われていた。しかし音楽が出てくる小説って、それを聴いたことある人とない人で大きく印象が変わるのだろうな。
■ 玄侑宗久『中陰の花』(2001年上・第125回)
作者と同じ禅宗の僧侶が主人公。「おがみや」やあやしげな土着信仰に関わる人が出てくる。こういう土着カルトみたいなものは、自分の経験からつらい印象しかないが、この作品では、既成仏教の側にいるはずの僧侶がそれを肯定するでもないが邪教として否定するでもなくて丁寧に向き合っている。そして、「おがみや」を巡る諸々も、妻の織り続ける紙縒も、皆、それぞれの生や死や苦しみと折り合いをつけ納得するための営みであり、世の宗教的なものというのは本来そうした営みやったんやなあとか思いながら読んだ。ちょうど犬の命日近くに読んだので感慨深くもあった。
余談:「水中クンバカ」という文字列を久しぶりに見た。受賞年の2001年にはオウムの記憶もまだ新しかった。
■ 青来有一『聖水』(2000年下・第124回)
表題作の他に、「ジェロニモの十字架」「泥海の兄弟」「信長の守護神」が収録されており全部面白かった! 舞台である九州は馴染みのない土地だが九州の土の匂いがするようだった。ドキドキわくわくしながら読んだ(※わくわくという形容が似つかわしくない話ではあるが)。「ジェロニモの十字架」と「聖水」はどちらも、長崎の棄教切支丹の末裔(かもしれない人たち)を描いたものだが、土着の民間信仰と融合した個人カルト的なものがテーマになっていて、「おがみや」的な人も出てくるし、偶然なのか、その点は『中陰の花』と共通。受賞作を遡って読んでいると年の近い作品には共通する箇所があったりして面白い。病気の治る水なんてのは、「ニセ科学批判」の対象であるけれど、一方で、それを求める人々の心を対象とするのは文学なのであるなあ、と思う。4作品中最も圧巻だったのは、「泥海の兄弟」の二人の少年の様子と、引き揚げられた死体の描写である。
余談:我が家もあやしい水を売っていたことがある。
■ 堀江敏幸『熊の敷石』(2000年下・第124回)
夢の話だあ、と思って読み始めるとヨーロッパ紀行文になり、いろいろなものがつながりを見せ始め、旧友と会い、シリアスで重要なことが語られ始める。だが、主人公は注意深くそれに土足で立ち入らない。主人公も作品も慎重で注意深いという印象をもった。選評を見たら「エッセイの域を出ていない」というような評があり、超今更だけど、エッセイ/小説(私小説)の境界てなんやろ、と思った。もちろん定義としてはいくつかのことが言えるけど、自分が作品を読んでどこで「エッセイだ(エッセイぽい)」とか「小説だ(小説になっている)」と感じるのかと考えると難しい。本作がエッセイ的と感じられるとするなら、上記の「土足で立ち入らなさ」がひとつの理由なのかなと思った。
■ 町田康『きれぎれ』(2000年上・第123回)
町田康は好きに決まってるので「やっぱ好きやな~」と思いながら読むのみで、特に一文の中で一人称が変わるのとかが好きで、シニフィアンの暴走具合が好きなのだが、計算されつくした暴走という感じだ。「詠嘆調」から「嬰ト短調」に行くのとか気持ちいい。一方で、正統に美しい描写もあり、たとえば畳に射す朝の光の描写など「こんな文章書けたら素敵やなあ」と思う。
■ 松浦寿輝『花腐し』(2000年上・第123回)
終始湿った猥雑な場末、暗い建物に満ちるどこか甘い腐臭――みたいな舞台立ては好きなやつで、それがバブル崩壊後、90年代の日本の空虚と重なっている。「ほんとに空っぽになっちまったとき初めて見えるのよ」「何が」「……この世の花だろうなあ」とかありがちな台詞かもやけど人生訓として好きだし実際バブル後にそういう花を見た人はいるんやろなあ。日本などもう係累のいないみなし児のようなもの、って台詞は現代に読むとさらにウンウンと思う。若い女の子が(名前はアスカだが)綾波系というかこれも90年代後半に流行った女の子像って感じがして、そこは自分にはなんかちょっと……やった。でも本筋はそこじゃないんだろう。作品の時間が流れる間、雨はずっと降り続いて、その底に再び恋人が沈んでゆくようなラスト、階上に上がっていく記述と対照的に。