今年も犬の命日(11/29)が過ぎました。
昨今、家族それぞれの状況も変わりつつありますが、LINEで「今日が命日やな」と言い合い、写真を送るなどしました。
アヒルを見るまめ子
房状の植物とまめ子
まめ子の看病~看取りが幸いさまざまな好条件に恵まれたことから、私は有難いことにそこまで深刻なペットロスに陥らずに済みました(少なくとも自覚的には)。とはいえしばらくはつらかったなあ、当たり前やけど、ということをこの季節になると思い出します。看取り前後の話は当時このブログに書きましたが(下の一連の記事)、死の直後のことは書いていなかったと思うので、この機会に、記録しておきます。
※当時の記事
犬を見送った翌朝、起床時に頭の中で流れていたのは、
♪ さあ今日から始まる妙な日々
♪ あなた いない 信じられない日々
という歌でした。ヤプーズの「赤い花の満開の下」、ほんとうは失恋の歌なんですけれどもね。失恋の歌ですが、明るく優しいメロディで、
♪ 陽ざしがまぶしいほど午後の空
♪ ひとりになったと実感が湧く
て曲です。この日がどんなお天気だったかは覚えていませんが、この曲のイメージのせいか、晴れていたような記憶があります。ちなみに前日は薄曇りだった記憶がありますが、実際にそうだったのか自分の心が投影されたものなのかは分かりません。まあネットで調べればすぐにその日の天気の記録は見つかるんでしょうけれど……。
ヨイショと自室から立ち上がり家族に会うと、
「なんかあんたドロンとしてるな」
と言われましたが、家族も全員ドロンとしていました。飯を食べながら突如泣き出す者がいたりと、正常な悲嘆反応とはいえなかなかに苦しい状況でした。ですが、さほど仲がいいわけでもなかった我が家族が、「悲しみを乗り越える」という共同の目的をもったのはこのときが初めてだったかもしれません。この後しばらく、心を慰めるためか、やたら皆が甘いもんを買ってくるのが流行りました。
昼過ぎには仕事に出かけました。
この頃はほどよく忙しくて助かりました。妹は、まめ子看病のために有休を多めに取っていたので、空白の時間ができてしまい気の毒でした。
駅まで自転車で行くと、自転車で通り過ぎる道がどこもここもまめ子の旧散歩コースであり、あちこちにすさすさ揺れるしっぽを幻視しては「アッ……もういない」となり、自動的に涙が分泌されては止まらず、オマワリさんに呼び止められるなどしました。
厄介なことに、この日が〆切の校正がありました。駅前の喫茶店で仕上げましたがその間もずっと胸のあたりはつらいもので満たされていました。ここで「悲しみにもかかわらず珠玉の原稿を提出した」とかなら超カッコイイのですが、超いまいちな出来でした。私は長年、(得意なことが何ひとつ無い中で比較的できることであった)文章を書くことに対して、一定のこだわりというか自負というか、をもっていたのでしたが、この頃を境にそういうものは無くなってしまいました。それまでは、「何があっても書くことで乗り越えられる」「心の安らぎなんかよりも書くことが大事だ」みたいな信念があったのでしたが、あー 自分はそういうタイプではないんやなと分かりました。
駅前の郵便局で原稿を送った後、姫路へ向かうべく京都駅のホームに並んでいると、後ろに並んでいた中年男性二人組の会話が耳に入ってきました。
彼らは共通の趣味なのか高そうなカメラをぶら下げていましたが、話題がなんというかもう、ウヨ雑誌(正式には「保守系雑誌」とか呼ぶべきなんでしょうがそんなちゃんとした名称で呼びたくない)の見出しをなぞったようなテンプレクソ会話でした。
「韓国はほんまに遅れた国ですなあ」
「ほんま、卑しい国ですわ、はっはっは」
「はっはっは」
という調子。笑うたびに高そうなカメラが私の身体にゴンゴン当たります。「ネトウヨになるのは底辺の奴や友達のいない淋しい奴」みたいな言説って未だにありますが、彼らはフツーに裕福そうでした。彼らにとって軽薄なヘイトは世間話ツールでありコミュニケーションツールなのでしょう。「貴様らこそ卑しいんじゃないですかね、こんな観光地の玄関口で、恥ずかしい話はやめてほしいもんですな」かなんか絡んでいこかと思うたのでしたが(実際道義的には絡んでいくべきだったのかもしれませんが)、そこには義憤だけでなく犬のことに由来する個人的なやるせなさも混じっているように感じて、まめ子の喪中に変なやつと喧嘩するのはよそう、と思いやめました。また、腹立ちで一瞬愛犬の死の哀しみを忘れていた自分に気づき驚きました。
彼らは次は、「電車に飛び込み自殺をするやつ」について話し始めました。いわく、
「飛び込みをする奴は山奥でひとりで死んだらええ、迷惑かけてアホですなあ、死ぬ気があればなんでもできるのに」
「遺族がぎょうさん請求されるんでっしゃろ、はっはっは」
韓国disの次は自殺者disです。自死がどうしてバカにされなくてはならないのか、彼らの中では特に明確なロジックもないんでしょう。ただ、彼らの中でバカにしておかねばならない(バカにしておくのがよいとされる)対象がいろいろとあり、そうして何かをバカにしていないと保てないマッチョイズムがあるのでしょう。次々と軽薄なヘイトを繰り出しては笑い合う様子には、なにか満たされないものをそうした言説で埋めようとするかのような空虚も感じます。死んだ犬の静謐さ、尊さに対して、人間たちの世界は喧しく卑しく愚かでした。
ところでこの「鉄道自殺は遺族が多額の損害賠償を請求される」という話は私も信じていたのですが、友人から、それはウソなのだと教えてもらいました。ネットで検索したかぎりでは確実そうな情報は見つかりませんでしたが、ケース・バイ・ケースである・請求されたとしても実際に莫大な金額を払うことは少ない、というように書かれているものが多かったです。自死ではありませんが、事故死した高齢者の家族が責任を問われた裁判は、最高裁でJR側が敗訴しましたね。
おっさんたちは、電車が到着しドアが開くと同時に、高そうなカメラをまたもガンガンぶつけながら前に並んでいた私を追い抜かして席を取りに行きました。
電車の中ではイヤフォンを耳に刺し音楽を聴きました。当時の日記によると、ミッシェル・ガン・エレファントの『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』『ギヤ・ブルーズ』、それからハイロウズの「不死身の花」を聴いたとあります。「不死身の花」には、
♪ さようならがさみしくないなら 手放すときためらわないなら
♪ 会わないほうが すれ違うほうが
という歌詞があり、きっとそれで聴きたくなったのでしょうね。
当時の記事にも書いていますが、この期間は好きな音楽にずいぶん慰められました。
姫路での仕事中は犬のことを忘れて元気になり、有難いことでしたが、この「仕事をしているときだけ元気」というのはつらいときに特有の現象でもあります。仕事中はだるいくらいが健康の証なのかもしれません。
見送った当日の夜はまだ実感も薄く、友人たちがSNSやメールでくれたお悔やみの言葉に返信をするなどして寂しさもあまり感じなかったのですが、姫路から帰った次の夜になって、断続的に犬の夢で起きてはあまり眠れない、という事態が起こりました。
その中のひとつは、抽選に当たった人がもう一度死んだ者に会えるという企画で、私と妹が抽選に当たる、という夢でした。
神社のようなところで、何かの台の真ん中にちょんもりと寝そべっているまめ子が引き連れられてきて、われわれは再び少しのあいだまめ子に触れることになったのでした。しかし「やったー!」という感じにはならず、(夢の中の)われわれは戸惑っていました。借り物の時間と分かっているから複雑な気持ちだし、せっかくがんばってお別れしたのに……とも思うし、でもやっぱり嬉しくて、せっかくだし触っておこう、と思い、そのふわふわとした毛の感触を感じ………そうになったところで目が覚め、あっ、いないんや……と思う、という繰り返しでした。
先日、「末期がんで余命宣告されていた患者さんが回復した、しかしせっかく回復したのに生きる気力を失ってしまった」という話を読み、その気持ちは少し分かるような気がしました。その患者さんはきっと、余命宣告を受けていっぱい苦しんでやっとそれを受容したのでしょう。それが、思いがけないアディショナルタイムを与えられ、いや、あれはなんやってん、という気持ちになられたのではないでしょうか。それに人間が不死でないからには、一度免れてもまたいつかそれはやってくるわけで、そうするとまた苦しい恐怖や受容の過程をやらなければいけないわけですよね。一方で、この夢はそうして、喪失を納得するための夢だったのだろうとも思います。
夢の中で、抽選のスタッフ(?)が
「中陰の間ですので……」
という台詞を言っていました。
「中陰」の間だから犬はまだ完全にあちらには逝っていないのでこうして触れるのだ、という解説だったのですが、「中陰」という語彙を普段使うことはないので、そんな概念が自分の中にあったことに驚きました。
そういえばちょうど今日、玄侑宗久『中陰の花』という小説を読みました。僧侶、その妻、地域の「霊能者」らが織り成すお話なのですが、人間は、割り切れない気持ちをいろいろに考えて試みて納得しようとしたり葛藤したりするものだな、というようなことを思いながら読みました。