乳腹一体型

フロイトの書いたもっともグロテスクな文章のなかに、フェラチオに関してのものがあります。それは、どのようにしてペニスが雌牛の乳房になりかわり、また雌牛の乳房が母親の乳房になりかわるかという説明です。別言するなら、フェラチオというのは、手近に雌牛がいないとき、あるいは母親がいないか母親の乳がでないときにおこなわれるというわけです。こういう仕方で、フェラチオが<本当の欲望>ではなくて、別の何かを意味し、別の何かをかくし、要するに別の欲望をかくしているということを証明するのです。これはとりもなおさず、精神分析はこうした点で完璧な解読格子を手中にしているということです。
 (G.ドゥルーズ精神分析に関する四つの提言」杉村昌昭訳、『政治と精神分析法政大学出版局、pp.34-5)



あけま(略
うし年ですのでうしっぽい引用で新年を始めてみました。

上はドゥルーズによる精神分析批判の一部ですけれどもしかし、件のフロイトの、ハンス少年の「雌牛のおちんちん」発言を分析してみせたくだりを読んでわたしが受けたショックは、またべつのものでありました。
「そうかあっ、われわれの下腹部には乳が無い!」
フロイトは、女子は自らの下腹部に男性器がついていないことを発見して失望するのだという物語を作ったけれども、実はわれわれの下腹部に欠けているものは男性器などでなく乳であることを、そのくだりで仄めかしてしまっているのです。


わたしはつねづね、ヒト科の乳と腹が上と下に大きく分離してしまったのは間違いであると思っておったのです。
牛も犬も、よい動物たちはみな乳腹一体型。だのにわれわれときたら乳と腹が分離してしまったばっかりに、一方は性的器官としてむやみに崇められ一方は単なる脂肪として断罪されるという受難に見舞われ、あげくに先進国女性たちは、《乳は膨れているべきだが、腹はひっこんでいるべき》などという無茶な理想に苦しめられるようになったのでした。


性の分化は人類の不幸の始まり、乳腹の分化は二度目の不幸の始まりです。
ああもし乳腹一体型なら、ぷるぷるしたものは全部腹部におさまって、なんとコンパクトで快適でありましょう。腹の肉がどうの、乳のサイズがどうの、そんな悩みも解消です。やはり乳腹分離型は、神の設計ミスだと思います。

そんなわけで、理想形を描いてみました(クリックで拡大)→



元旦初タイピングが「乳房」だの「フェラチオ」だのだった自分に疑問を感じつつ、本年もどうぞよろ(略