会津旅記(4)白虎隊、さざえ堂

 
そのようなわけで、飯盛山を登り白虎隊自刃の地へ。
 

 

道中、きれいな苔。でっかいダンゴムシ

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陰惨な歴史の場所ではありますが、五月の緑が美しい飯盛山は、街の東にそびえていることもあってどうにもわれらの東山を思わせ、私と母は「黒谷に似てるね」「吉田山みたいやな」とかばっかり言うてました(どこへ行っても京都の話をする京都人の習性でもありましょう)。
会津からやってきて東山山麓に落ち着いたうちの先祖らも、「おお、東に山がある、飯盛山に似てるやん」と思うたかもしれません。
会津の子である白虎隊士らにとっても、子供の頃から馴染み深い遊び場だったといいますから、まさにわれらにとっての黒谷やら吉田山みたいなもんやったんでしょう。

 

緑の中を抜けると墓地に出ます。

親切な心遣いのある案内なのですが、「自刃の跡までおりて下さい」という文字列のインパクトがなんとも……。

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「自刃の跡」という文字列と、五月の好天ののどかさの不調和がなんともふしぎ。ここに限らんことですが、「悲惨な歴史」と「観光」の取り合わせっていつもふしぎな感を催させます(例: enjoy shimonoseki!)。


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さらに傍らには妙にぎらぎらしたQRコードのボードも……。

周囲との違和感がすごくて思わず写真を撮ったのでしたが、後で思えばAR飯盛山とAR土方歳三とも一緒に写真を撮ればよかったですね。

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墓地の一角が「自刃の跡」であり、碑が建てられています。ここで十代の少年たちが自害したわけですが、やはり賊軍として埋葬が禁じられ、遺体は野晒しにされていたといいます。


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隊士像の後姿。この像は、鶴ヶ城の方向を望む姿で建てられています。ここから街を望み「お城が燃えている」と知った白虎隊士たちは、敗戦を悟り自害していったとされています。


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ここから会津の街を望む感じがまた、東山から京都の街を望む感じとよう似ていました。鶴ヶ城の緑がこんもりと見えるのも、御所のこんもりした感じに似ていて。母が「私も東山からあのへんが燃えるんを見たら、自害……はみすみす勿体ないから、斬り込みにいくわ」と物騒なことを言いました。

 

 

隊士像の後ろで朽ちていた墓石たち。f:id:kamemochi:20220530143603j:image

 

 

自刃の地である墓地から広場に戻ると、広場の奥に十九隊士を祀る墓があります。母実家と同じ苗字の人がおり、縁があるかないかは知りませんが、母がお賽銭をあげてました。

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ところで、この広場には、さまざまな碑にならんで、かつてドイツとイタリアから贈られたという碑があります。白虎隊の精神への感銘を表して建てられたものですが、いずれもファシズムの時代に贈られています。

太平洋戦争、第二次世界大戦の時代の日本で、白虎隊の物語がどのように受容されたかというのは興味深いところです。以下の文章では、戦前の日本の教育の中で白虎隊の物語が悲劇として強調されていく過程に触れられているとともに、賊軍のはずであった白虎隊が、むしろ戦中日本のあるべき姿として受容されていったねじれについても書かれています。(かつ、それが現代の地域性や観光の問題とつなげて論じられています。)

ストーリー化された歴史観光素材の功罪をめぐって~「幕末会津」をめぐる言説を中心に~ | CiNii Research

 

年端のいかぬ少年たちが抗戦の末に自死を選び、かつ満足に埋葬もされなかったという史実は、たしかにいたましいものでありまたセンチメンタリズムを刺戟するものでありますが、一方でそれを美談として受容するのもまたなんかねえ、てなことを思いました。こないだから維新をdisってばっかいるので佐幕派シンパみたいですが、会津藩家訓のようなものもまたわたくしのよーな軟弱者には怖いものです。上の論文では、戊辰戦争の時代の、武士階級と民衆との乖離を示すエピソードも紹介していてハッとしました。前回、維新で敗者となった地域を引き合いに出して、日本て一枚岩ではないんやなあ、て感慨を書きましたが、勝者/敗者の内もまた一枚岩であるはずがありません。

 

 

遠足の小学生たちに混じって再び石段を降ります。

売店を抜けると小さな展望台があり、さざえ堂のてっぺんが間近に見えます。

この展望台はなんかレトロで好きな感じでした。

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ここにも鶴ヶ城を望む隊士像。いろんなところにお賽銭を置かれていました。

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隊士像の横では、白虎隊の刀を模したキーホルダーやらマスコットやらが売られています。え、ええのんか……? 自刃の地と霊場でしんみりした後で、中二グッズの数々!

しかし私は自分が観光地育ちのせいか、こうした「観光地不謹慎」みたいなやつが大好きなのです……。ちなみにこれまで一番ええんか!?と思ったのは、北海道・網走監獄の土産です(当時の監獄について学びいろいろ考えながら入った土産屋で「脱獄せんべい」とか「終身刑Tシャツ」とか売られている……いいの!?)。

 

あとこういう「観光地舞台裏」みたいなやつも好物のひとつです。


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さらに石段を降りて、さざえ堂のほうへ。

 

さざえ堂横の土産屋は中二感が薄くなんかオシャレ。

 

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さらにその横の宇賀神堂。白虎隊自刃の図が掲げられ、図と同じ配置で十九隊士の像が祀られています。

 

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閉鎖されたおみくじ。何故?


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そしてこれがさざえ堂。さざえ堂は、私も母もずっと来てみたかったスポットのひとつなのでやっと来れて嬉しかったです。


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正式名称は円通三匝堂といい、江戸期に建立されたもの。上りと下りがすれ違わない二重螺旋構造になっており、中を巡りながら三十三の観音像を巡ることができるようになっていたといいます。

思ってたより小さい建物でした。入り口をくぐるときは、遊園地のびっくりハウスみたいなやつに入るときと同じわくわく感。

 

かつてあった観音像は今はなく、その場所には「皇朝二十四考」のお話と絵がひとつずつ掲げられています(……がほとんど見えないものもあり)。


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足元は斜めに傾き、歩くたびにカタカタ揺れるのがドキドキ。板に穴が開いているのは、人工的に開けられたものなのでしょうか。


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てっぺんはこんな感じです(母の撮る写真はだいたいブレています)。


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それにしてもお堂の隅々まで、人々の札貼り欲と落書き欲がすごい。人はなぜ相合傘を描くのか? 今でも相合傘ってあるんでしょうか?


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拝観料が150円だった時代の感想。いつのものでしょう。(現在は400円でした。)


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さざえ堂からさらに山を降りたところは、お花が咲き水が流れきれいでしたが、ここは、白虎隊士が飯盛山に引き揚げるために潜伏してきたという水路でもありました。


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洞穴の周りは、想像していたより水の流れが激しくて驚きました。

 

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こんなところに少年たちが潜んでたんか……。しかも、季節はもう秋だったといいます。私も母も、「戦争はいややなあ~」「いややなあ~」というアホのようなシンプルな感想を言い合いました。水鳥がぷかぷかしてました。

 

 

山を降りる途中には白虎隊記念館があります。表の看板がもうなんかすごい。しかし、一時間に一本のバスの時間を逃しそうであったうえに修学旅行生でいっぱいだったので、ここはカットしました。また今度来る機会があれば……。


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お山では、首輪をつけたねこちゃんとも会いました。


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