会津旅記(3)会津と私/飯盛山へ

会津に行きとうなったのは母方が会津ルーツであるから、というのを書きましたが、それを意識するようになったのはなんでだったか。まア、人は一定の年齢になるとやたら家系図やら自分のルーツやらに凝り始める傾向があるので(中年期のアイデンティティ危機のゆえなのでしょう)、私もそのクチであるということなのでしょうが、そもそもうちの母方親族の一種特異な雰囲気を、昔からふしぎに思っていたのでした。

 

親族の集いというのはだいたい因習的でうっとうしいものとして語られます。が、私にとっては、母方親族の集いは子どもの頃から心解けるものでありました。そりゃまあ親族なのでうっとうしいことがゼロではありませんが、しかし、親族の集いというよりは何か、自助グループのような趣があるのです。健康的な真人間の多い父方に比して、一風変わった人間が多く、今どきの言い方でいえばどこか「生きづらさ」があったり。といっても基本的に皆のんきで陽気な者たちではあるのですが。だけどそこはかとない反骨精神のようなものを共有していたり。この感じってなんなんやろな、とずっと思っておったのですが、あるとき、彼らが会津と縁が深いことは少し関係あるんかもしれへんな、と思い当たったのでした。

先祖は京都守護職に任命された容保につき従ってやってきた人たちで、戊辰戦争で帰るところを失いそのまま京都に居ついたといいます。よって私の知る世代の者たちはすでにみな京都生まれであるのですが、母の子供の頃はまだ、年寄りたちは寄り合うと会津の話をしていたといいます。前の世代から聴かされた故郷への思いがまだ色濃かったのでしょう。そして、上述のように「自助グループぽい」とか「そこはかとない反骨」とか感じたものは、そうした中で醸成された、敗者に寄せる視線であったりアンチ中央の意識であったりしたのかもしれません。そういや母もよう「会津容保(※独特の抑揚で)は可哀想や」と言うてましたわ。

そんなことを考えるようになった頃、ちょうどあねが幕末・明治史ヲタとなり(奥羽越列藩同盟おじさん事件について書きたいが割愛します)、いくつか本を薦めてくれました。著者が会津贔屓すぎるかも、との注釈付きで薦められた中村彰彦『幕末入門』(中公文庫)や、名著・柴五郎『ある明治人の記録』(中公新書)など。それらを読みながらしみじみ思うたこととしては、われわれは「日本人」が一枚岩のように想定したうえで「日本人」に同一化しようとするが、それは明治以降いろんなものをなかったことにしながら作られてきた幻想なのであるなあ、ってことであります。

たとえば柴五郎の本では、靖国神社のことが書かれていました。靖国は維新の犠牲者を祀るために建立されたのに、賊軍とされた東北の戦死者は祀られていないということを柴五郎は批判的に書いています。しばしば日本人の死生観として「人は皆死んだら等しく英霊になる」ということが言われ、それは公的な靖国参拝を肯定する際の主張として持ち出されることもありますが、その「皆」に含められていない者がたくさんいるのであるな、と思いました。(この本は全体的にとてもよかったです。個人の回想という形で、斗南藩への実質流刑の苛烈さなども描きながら、文体にどことなく可愛らしさやユーモラスさがあって。)

「維新」といえば、旧弊な時代からの脱却という明るいイメージがありますし、その言葉をやたら英雄的でかっこいい言葉として使いたがる向きもありますが、明治のそれは本来、血腥い戦の中で殺したり殺されたり誰かを悪者にしたりされたりしつつ達成されたものでありました。明治維新150年は、会津では「戊辰150年」です。「日本人の歴史観」なんて言い方をすることもありますが、それはけっして一様ではないはずです。

 

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と、前置きが長うなりましたが、そのような会津側からの歴史にもっと触れたいということはずっと思うておりまして、この日は諸々の史跡を巡ることとしました。というても定番観光スポットばかりなのでただの観光記録ですが。というか、定番観光スポットのすべてが戊辰戦争150年にまつわるスポットなのでありました。

 

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会津市内観光は、レンタサイクルかバスが便利なようです。

どちらにするか迷いましたが、母も一緒なんでバスにしました。市内観光用に「あかべぇ」「ハイカラさん」というまちなか周遊バスが出ています。

 

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1日乗車券(600円)を会津若松駅前バスターミナルで買いました。

しばらく待つとかわいらしい「あかべぇ」が到着。バスはだいたい1時間に1本ペース。

 

車内では会津方言クイズが。ぜんぜん分からん!


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会津若松駅から「飯盛山下」まではわずか5分程度でした。目の前に、五月のお山があおあお。街の東にお山が低く並んでいる風景は、東山山麓の民である私には親しみを覚えるものでありました。

 

バス停前。つつじがきれいでした。


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ちょっと観光ムードの漂う界隈を、飯盛山へ。

ご当地マンホールのカラーverを採取しました。


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ご当地コカコーラ自販機も。

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そして飯盛山。右手には「動く坂道」があり、呼び込みのアナウンスが流れるのですが、「歩いて登ると本当に大変ですから……」と繰り返されていてなんか笑いました。

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めっちゃ推される動く坂道。

 

 

母は階段を上ることが何より嫌いな人間なので動くやつを選ぶだろうと思いきや、「100段くらい上れるわ」と階段を選んだので驚き。旅は人を活動的にしますな。

 

石段の途中の風景。哲学の道近くの水路に似てるなと言い合いました。飯盛山はたしかに、われわれの東山によく似ている気がしました。

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石段中腹から見降ろす街。「山に囲まれた街」にいるとほっとしますね……。


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中腹には、白虎隊の資料展示を兼ねた土産屋があります。白虎隊の自決の物語は、ひとりだけ生き残った隊士によって伝えられたそうです。「白虎隊の物語は、有名な物語と少し違うのです」というようなことが書かれていましたが、「有名な物語」も、そういえばふわっとしか知りません。土地の人々の並々ならぬ思い入れが伝わります。

 

約100段の石段を登り終えると「白虎隊霊場」となっている広場が見えてきます。


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順路案内版の「自刃」の文字のまがまがしさにうおお………となりつつも、その跡地へ。


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おまけ。出発前、ホテルのロビーにて赤べこと撮った写真。

喉を撫でると反応してくれて可愛い。至るところで赤べことこぼしに出会うので、だんだん可愛く思えてきました。母は飯盛山の土産屋で小さなこぼしを買いました。

 

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