会津旅記、続きであります。
飯盛山を降りたわれわれはふたたびバス停「飯盛山下」からあかべぇに乗り、東山温泉のほうへ。バス停には修学旅行生たちがいて、バスが時間通りに来るのかをやたら不安がっておりかわいかったです。昔は中高生の集団なんてうざいとかコワイとかしか思わなんだのに、ついにかわいく感じるようになってきました。中に、土産物の模造刀を携えている中学男子がおり、
「うおおーーー! 刀買ってるやつ今でも実在するのか!!」
と超テンション上がりました。中二土産よ……永遠なれ!
東山温泉入口付近をぷらぷら。ええ感じの建物群がありました。
基督看板をゲット! 地元ではめったに基督看板に合わないので嬉しくなってしまいます。よく見ると、新しい屋根の下は、由緒ありそうな建造物です。
「鶴井筒」というお店に来ました。
昨夜の食いっぱぐれ事件に学び、この日はちゃんと飲食店を調べてきたのでした。大地主の豪邸を移築した建物とのことで立派な建物! 「鶴井筒」という名前は、かつてここで造っていた酒の銘柄の名に由来するそうです。
電灯の傘が素敵!
板の間を抜けて通された広い座敷には、絵や有名人のサインや大きな壺がたくさん飾られ、少し開いた戸から覗くお庭の五月の緑が美しい。
会津の郷土料理が食べられるセットを頼みました。お蕎麦と山菜、お漬物、にしんの山椒漬け、棒鱈、豆腐の味噌田楽。会津の名物は京都と同じく、保存のきくお魚など内陸の街らしいものばかりですね。親近感を覚えます。
特に美味しかったのが「蕎麦にちょこっとだけ添えられていた大葉」。少量だけだったのですが、えらい風味がしっかりしていて、その少量をお蕎麦と一緒に食すだけでお蕎麦の味が引き立ってうまままま! 感動しました(私は大葉好き)。
デザート?に出てきたお餅もやわらかくて美味しかったです。お茶の器が、昔に母の実家で祖父が出してくれたものと似ていて、懐かしくなりました。
そしてこちらのお店、二階(というか屋根裏)に「ネパール博物館」が併設されているのです。
食事の広間にはまったくネパール的な気配はなかったので、「博物館てほんまにあるんかな?」と半信半疑であったのですが、お勘定のときに「博物館も見せていただけるんですか……?」と訊いてみると、屋根裏への階段の電気をつけてくれはって、それをギシギシと上がってゆくと小さな博物館が現われたのでした!
どういう経緯でここにネパール博物館ができたのかはよく分かりませんでしたが、お店の人の個人的なコレクションであると思われます。(詳しい事情を聴くのを忘れてその後ネットで検索したけれどよく分からずでした。ツイッターで「会津 ネパール博物館」を検索すると「なぜ会津にネパールが?」というツイートばかり出てきて笑いました。)ヒンズー教や仏教に関する像、絵、道具などが展示されていました。屋根裏は二層になっており、上の層はサウナのような蒸し暑さでした。
卵を抱く蛇。同じモチーフ(何らかの意味があるらしいが……忘れてしまった、子孫繁栄?)のがいくつかありましたが、中でも卵の色がきれいだったもの。
十一面観音(?)ですが、十一あるお顔が全部同じ大きさですごい。
屋根裏の一番てっぺんから吊るされていた男根。由緒あるお屋敷の天井にこれがひっそりあると思うと趣深いです。
鶴井筒さんの近くには、松平家代々の墓があるので、お参りしていくことにしました。
なんでもないような地元の路地を抜けた奥が墓所です。なんでもないような、と書きましたが、路地にはこれまた由緒ありそうな蔵が並んでおり良い感じでした。
墓所への入口です。二代目藩主から容保までが此処に葬られています(保科正之は別)。松平家は神道を信仰していたので、神式のお墓だそうです。
周囲はひっそりとしており、観光地という感じではありません。そこらへんで入手した観光案内パンフには「パワースポット!」なんて書かれていたけれども、言われなければここに御廟があるとは分からないかも。しかし、水が流れ樹々に囲まれ、良い季節のときには良い場所です。では行こうか……と緑の中をゆこうとしたところ、何か貼り紙が……
熊出没注意
うぇぇ! めっちゃ怯え始める母と私。注意と言われても、こんなとこでクマに遭っても逃げ込むところもありません。
しかし傍らを見ると、「熊鈴貸出中」と書かれた箱がありました。おお、これを携えていけばよいのか! と箱を開けると……
中はカラ!
「熊鈴は必ず返却してください!」という張り紙には、熊鈴の盗難が続いている旨書かれており、例の決め台詞「ならぬことは、ならぬものです」で戒めていましたが、効果はなかったようです。ならぬことはならぬものです………。
母は「こんなことするんはよそから来たもんやわぁ、会津の人はそんなことしはらへんわ」と、いつしか超会津贔屓になっていました。
とにかく熊に怖気づいたわれわれは、代々藩主の墓はスルーすることとし、麓にあった松平家愛馬の墓にのみ手を合わせて去ったのでした。