永遠に可愛い不在の対象たちよ

早いもので、まめ子の二度目の命日を迎えました。もう二年も経ったのかというような、まだ二年なのかというような、ふしぎな気持ちであります。
朝起きてまず犬に挨拶をしていた二年前までの日々を思い出すと、ほんとうにそんな日々があったのだなあと夢のような気持ちがする一方で、まめ子は依然、最高の犬として我が心に生き続けてもいるのです。

まめ子の逝去以来、まめ子のお友達が続々とあちらに旅立ったとの報を聞きました。まめ子のお友達も老犬が多かったので仕方ないのでしょう。まめ子を知る犬たち、まめ子を偲ぶよすがともなっていた犬たちがいなくなるのは、一時代が終わったようで淋しい気持ちになります。
先日、何度か会ったことのある、先輩のおうちの犬さんが旅立っていったという報を聞きました。当ブログにご登場いただいたこともあります。はるばる遠いところから遊びに来てくれて、まめ子に会ってくれたのでした(まめ子は吠えていましたが)。飼い主をじっと見つめる目がかわいらしく、賢い犬さんでした。最後まで粘り強く闘病されたと聞きました。小さく偉大なものたちの逝去の報を聞くたびに、逝ったものが星になると考えた昔の人の気持ちが分かるなあと思います。彼らは、もうこの地上で会えなくても、忘れ難い不変のものとして夜空に貼りついている感じが、確かにいたします。



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今年は、たくさん良い本との出会いがありましたが、そのひとつが内田百閒 『ノラや』です。
20年ほど前にもパラパラと読んだ記憶があるのですがあまり印象がなかったのです。しかしそれから、まめ子との10年を経て読むと、ぜんぜん違う読書体験となりました。電車で読んだのですが、開くだけでダーーーッと涙が流れるので困りました。






ノラや』は、二匹の猫の、長い長い喪の過程を描いた文学です。
百閒先生は二匹の猫との別れを体験し(別れの形は違いますが)、そのたびに身も世もなく泣き惑います。まだペットロスという言葉もない時代、気難しげな百閒先生が小さな猫のことなんかでそんなふうに惑うのは、周囲からは奇異に見えたかもしれません。たとえば、いなくなったノラの布団に顔を埋めるという花袋的場面。

「風呂蓋の上にノラが寝てゐた座布団と掛け布団用の風呂敷がその儘ある。その上に額を押しつけ、ゐないノラを呼んで、ノラやノラやノラやと云つて止められない。もうよさうと思つても又さう云ひたくなり、額を座布団につけて又ノラやノラやと云ふ。」 (『ノラや』 中公文庫、p.49)


この後の、「ゐないノラが可愛くて止められない」という表現の鮮烈さよ。
それは不在ではあるのだけれど、不在の対象として存在していて、存在しているのと同じに、可愛くてたまらないのです。私もそのように、もうその実体は地上に現前しないはずなのに、あの可愛いまめ子の形が、依然可愛いものとして、型抜きで抜かれた穴みたくこの世界にある、という感じを日々感じています。

病死したクルは、逝ってしまったあとも百閒先生のおうちにやってきます。「クルは幽霊ではない。クルはいつも私共の心の中に安住してゐる」(283頁) と百閒先生は言います。長い喪の作業を経て、いなくなったクルはやがて、声となって百閒先生の咽喉に棲みつくのです。見事な、失われた対象の内面化、悲愴しかしかつ幸福な対象恒常性ではありませんか。

家内が遠くの方へ耳を澄ます様な顔で、「矢張りニヤアと云つてゐる声が聞こえます」と云ふ。初めは私もさうかと思つたが、違ふ。喘息気味の咽喉の奥が、微かに鳴つてゐるのである。
「クルや、お前は咽喉の中まで這入つて来たのか」
 (283-4頁)



百閒先生は、自分は別に猫好きではないのだと言います。 「ただ、ゐなくなったノラ、病死したクル、この二匹が、ゐてもゐなくても、可愛くて堪らないと云ふだけのことである」(285頁)。なんと的確な表現でしょうか。「ゐてもゐなくても可愛くて堪らない」、百閒先生、まったく同じ気持ちです。



写真をいくつか載せます。



ちょうど12年前の戌年、来たばかりのまめ子を年賀状にしました。そのときの写真。ピンクのお花が似合います。
それまで「犬や猫の写真を年賀状にするやつはなんなんだ」と思っていたというのに……。



先輩の犬さんが遊びに来てくれたときの写真です。まめ子のリードを握っているのはやはりはるばる会いにきてくださったまめ子ファンさん(無粋な修正の仕方ですみません……)。楽しい一日だったなあ。(犬たちの距離感は最後まで微妙でしたが。)



ちょうど今頃の季節のまめ子。無駄に神々しく見える光。逝ったのもこの季節でしたが、落ち葉の中を元気にざくざく歩いたのもこの季節だったのでした。



ちょっと気に入っている、まめ子を登場させた絵。
私の中でも、犬との日々はお星様になって煌めいており、書いたり描いたりすることは、それを星座のように固定することなのであるなあと思います。