疫病の風景

街を歩くと野性のマスクが実ってました。

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いつもレイアウトが不安な気持ちを喚起する京橋真実の口。

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数日前。この頃はまだ「二人」だったんですね。

 

 

 

そんなこんなで疫病の騒動ですが、なんかもう、ネットニュースのコメント欄に並ぶ感染者叩きなんぞを見ておると、コロナどもより人間どもがええ加減イヤになってきました。

昔、某寺の(パイロンの)悪口を書いたことがありまして(https://maternise.hatenadiary.jp/entry/2012/12/30/123954)、なんかこの頃の文章はちょっと恥ずかしいのでアレなんでありますが、しかし今回の騒動はここに書いたのと同じものを感じるなアと思っておりまして、これを書いたのは当時自分の属していたコミュニティがなんやらかんやらと理由をつけて気に入らんやつを追い出そうとする動きをしていた頃でありまして、しかしその理由というのはそれ自体としてはまったく正しく反論しがたい理由であったのですよね。つまり、「気に入らんやつを追い出そうなんて思ってるわけじゃありませんよ、ただこういう理由で仕方なく」と言われれば誰も(明らかにそれが本心でないと分かっていても)反論できないような。

たとえばその排除は、ここに書いた通り「禁煙」の運動から始まったのでありましたが、禁煙の要請それ自体は、あなたの健康のため、周りに迷惑をかけないため、と言われれば反論しがたい要請であります。そのように、健康を守ろう、命が大事、あなただけでなく周囲に迷惑をかけないために、と健康や命を盾に取られれば、それ自体には誰も反論できないわけであります。盾に取ってる側が人の健康や命の大切さなんか全然信じてなくても。

 

んで今回の騒動にはそういう発言のしにくさとまったく同じもんを感じますわ。そら私かて、厄介な病気をもらいたくないしそれを周囲の人にうつしたりしたくない(自身は高齢の人や危険であるとされる基礎疾患をお持ちの人ほどには切実でないかもしれませんが、周囲にはそういう人もいる)。しかしこれを機会に、つまり、それぞれが周囲の迷惑や周囲の生命を思いやって致し方なく諸々我慢したことを機会に、集会の自由を奪われることに馴れたり横並びの自粛ムードに横並ばないやつをぶっ叩く雰囲気に馴れたりしてしまうことはかなりやばいことなんちゃうかという認識は持っときたいすわ。って言うと、イヤでも危機管理は大事やろと言われるかもしれんけど、それとそれは別に矛盾しないでしょっていうか、これはこれで危機管理(社会的危機の監視)でしょと思うわけです。感染症を政権批判の道具にすんな、みたいな意見も見ますけど、そりゃ陰謀論みたいになってしまうんは不毛ではあるけど、うちらがそう思うてお人よしに控えめにしてても、権力(日本の現政権に限らず)のほうは実際いつでも遠慮のう病気やら健康やらを支配の道具にしてきたやろ、と思うわけです。

 

てか、ネットで、感染者が「危機管理意識がない」「(感染者と接触した人や店は)損害賠償を請求すべき」とか叩かれてるんを見ると、いや分からんではないけど、しかしあかんで個人攻撃、われわれこれまでの感染症や病気を理由にした差別の歴史を知ってるはずやろ、といたたまれん気持ちになります。そもそもこれまでさんざん「風邪でも休めないあなたに」とか「接客業マスク禁止」とか言うてたん何やったんや。私もこれまで具合悪いの隠して仕事に行ったこと何度もあります。特に「客船クルーズ」とか「ライブハウス」とか、「この非常時にうかうか遊びに行って感染した愚かな人」みたいなイメージ(それもほぼ想像による)にくっつけてのバッシング、もうめちゃくちゃイヤっすわ。子供のエンガチョ遊びかって思います。 ところで上のリンク、当時京大総長だった松本氏の悪口を書いていますが、山極治世で変わるのかと思いきやそうでもなかったようですね。ああ、タテカン撤去も、(それ自体としては正しく反論できない)景観や安全性を理由にしていたのであったなあ。つらいわーまぢ。