寺の、人に優しくないパイロン  ――寺、大学、日本


いつしか街に、中央に仕切りが立てられたベンチが増えました。
そうすることで、ベンチで横たわることができないようにし、野宿者の排除を狙ったものです。
アレを見かけるたび、「なんて性格が悪いんだ」 とイヤな気分になります。
アレを考案したやつ・設置したやつに、京都人のぶぶづけを非難する資格はありません。
「でも、じゃああんたは、夜中に近所の公園で知らんおっさんが寝てたら怖くないのか?」 と言われれば言葉に詰まるところで、よってベンチを仕切らせたゆえんであるところの排除の心は結局私の中に根深くあるのでしょう。だがしかし、そうだとしても、がんばるべきはそこ(ベンチを仕切ること)じゃなかろうよ、と思うのです。


と、それは一例なのですが、昨今この手の浄化運動をあちらこちらで見る気がします。かつそれは、時代の支配的な雰囲気として、割にすんなり受け容れられているように思います。勿論その背後には諸々の事情があるのでありましょうし、それらを一概に否定すべきでないとは思いますが……、しかしこの「否定すべきでない」という点がまた曲者で、否定すべきでないという点に付け込まれている感は大いにあります。(上のベンチの例然り。)

ところで(既に言及されていることとは思いますが)昨今発見した法則として、「浄化運動は禁煙から始まることが多い」というものがあります。
もちろん「禁煙」自体は何ら悪いことではないでしょう。煙草の煙が苦手な人、これまでそれを我慢してきた人のため、また、あなた自身の健康のためを思って、といずれも正当な理由でありますし、それ自体は否定できません。が、確かにそうだよなあと「禁煙」を受け容れたらば順次段階的に、受け容れがたいことがなし崩し的にゴリ押しされていく、という構図を昨今度々見たのでした。
その構図を最初にわが身で体験したのは、「世界的な風潮でもありますからここもひとつ禁煙で」というご尤もな提案から始まった、某けんきうしつにおける浄化運動でありましたが、これについては詳述しないこととして、今年、周辺の寺でそれとまったく同じことが起こったので、ひとつの事例として挙げておきます。



その寺はあるときからパイロンを置きだしたのですが、その置き方が実に不粋であったことは前にも書いたとおりです。茶系を貴重とした静かなたたずまいの寺に、赤いパイロンの数々。しかも「契約車のみ」などの不粋な貼り紙つき。
そして「禁煙」パイロン。





この寺は、大通りと大通りをつなぐ、近隣住民の通り道に位置しており、一種いこいの場だったのですが、まずは煙草が排除されました。しかしまあ、時代の流れとして仕方なかろう、と思っていたらば今年、犬の立ち入りが禁止されました。
犬を飼って以来散歩コースの一部であり、四季の景色を眺めたり寺務所の方と挨拶したりと、犬を連れてそこを通ることには愛着をもっていたのですが、しかし参拝客の中には犬の苦手な人もいるだろうし、糞害などもあるでしょうから(注:わたくしはもちろんいつもお犬様の御糞は持ち帰らせていただいております…大切なものなので)、残念に思いつつもまあ犬は仕方ないよねと思っていたところ、今度はこんなパイロンが。





うむ。これは困る。
先に述べたようにこの寺は、大通りと大通りをつなぐ通り道であるので、ここを断たれるとかなり大回りをしなくてはならなくなるのです。郵便や配達の人も利用する道なのになア…。
そしてこの、「通り抜けができなくなります」という言い方! これは各種浄化運動に共通する特徴的な表現でして、浄化運動の主体はけっして「通り抜けをできなくします」あるいは「通らないでください」とは言わないのです。あくまでも「できなくなります」なのです。某浄化運動の際も、「大学に来ないでください」ではなく、「大学を利用できなくなります」と言われましたからね。おっと誰か来たようです。

そしてこの翌日、このパイロンはこのような機械に変身していました。



ぢゃーん




見事な通せんぼ機械!
アホか!
早速立ち往生しているバイク便の人を見かけました。近隣住民からも不便になったとの声がちらほら。さらには、自転車・バイクだけでなく、車椅子も通り抜けられなくなりました。そんなことは想像もしないのでしょう。それが仏の心なのでしょうか。

勿論、寺もいまや仏の心以前にお商売でしょうし、お坊さんの多くは袈裟をお召しになった駐車場管理人なのでしょうから、寺の経営上色々なご苦労があることでしょうし、このようにしなくてはならない事情もあったのでしょう。しかしやはり、寺(そして大学)のような場所には、昔ながらの「アジール」的な役割であってほしい、と思うのはもはや古の幻想なのでありましょうか。


実際、寺側の気持ちとしては単に、自分ちの敷地をそんなアジールとして使われちゃ困るよ、なんかイヤだよ、というところなのでありましょうが、しかしそれを責めたとて、表向きは「そうではなくて境内の安全のためです」とかなんとか言われるでしょうし、第一、実際に寺の敷地であることは確かなのですから、こちらには、寺のこの姿勢を責める法的根拠はないのでした。
そう、わたくしがこの寺のことで実にもやっとしたのはこの点なのです。たしかに、寺の私有地に寺がこのような制限をかけることには何の法的問題もなく、むしろそれまでわたくし始め近隣住民がいこいの場や通り道として使っていたことが恩恵であったのであって、われわれは文句を言う筋合いはない、つまりこのやり方を否定すべき根拠がない、という点なのです。「受け容れがたいが手続き的に問題はない」という点こそが、もやっとする点なのです。

今日はたまたま寺の悪口として書いていますが、こうしたやり方が昨今(いや、わたくしが呑気だっただけで昔からあったものなのかもしれませんが)あちらこちらで見られるようになったと思われます。
たとえば先に述べた某浄化事件でも、浄化する側の論理に何ら間違ったところはなく、われわれが大学を訴えられる法的な根拠はありませんでした。野宿者の件でも、「だって公園はその人の家とちゃうやん、そもそもその人がそこで寝てるんがおかしいんやん」と言われれば、否定することはできません。寺が「アジール」的な役割を果たしていたというのも、寺側の好意および社会的地域的良心に依存していたに過ぎません。
しかし、そのようにこれまで、好意・良心あるいは通念によって上手く行っていた(もちろん「上手く行っていた」のは片側あるいは一部の者のみであるという可能性は常につきまとうのですが)ものが、なし崩し的に浄化されてゆく、平たく言えば、「普通、そこまでやらへんやろ? 今までそこまでやらへんかったやろ?」 というようなことが淡々となされていく、というのが、昨今顕著な傾向であるように思われます。

寺の件はそのほんの一例であって、社会の動きの一角をとらえそれにのっかったものにすぎないと考えます。
たとえば今年は、京大関係者の一部にとっては、総長の国際なんとかなんとか院構想の年でありましたね。この同じ松本紘総長が昨年警察を呼んでまでタテカンを一掃したのは、象徴的であったと思います。この総長の遣り方はまさに、「受け容れがたいが手続き的に問題はない(から抵抗できない)」やり方の典型であります。
京大も、常に浄化運動が行なわれている大学です。私が大学を知ったときから徐々にクリーンになりつつあります。新たにきれいな建物を(勝手に)建てておいて「きれいになったからビラを貼るな」は記憶に新しいところ。そしてそれは当局vs学生 という単純な対立ではなく、学生の中でも「学生運動で演説している人がうるさいから、やめさせてほしい」と事務に文句を言う人もあります。たしかに、急いでいるときにビラまきにつかまって厄介、演説の声で自習ができない、勉強しにきてるのに、という言い分も否定できない、ということはわかるのですが。
そして今年は、寺、大学、のみでなくもっと大きなところで、「受け容れがたいが手続き的に問題はない(から抵抗できない)」動きが起こっていたように思います。来年以降、この動きはどうなっていくのでしょう。願わくば、あー、あの年がすべての始まりであったね、ということがなければよいのですが。

明日の大晦日には、この寺でも有名な鐘がつかれます。108の煩悩が、108とは言わずともパイロンの個数分くらいは滅されますよーに。くんしん崩落。