なぜ私は地震が怖いのか

私の怖いもののひとつに「地震」があります。最近あちこちで地震が頻発しており本当にイヤですね。なんでこんな地震の多い国に生まれてしまったのか、いや、なんで地震の存在する世界に生まれ落ちたのか、って気分です。なんらかのミラクルでこの世から地震がなくなるのであれば悪魔と契約してもいいです。悪魔と契約って具体的に何をするんだかよく分かりませんが。

 

……といってまあ地震が好きな人も少ないでしょうし、全く怖がらなければないでそれはそれで問題があるんでしょうが、最近、自分の怖がり方が常軌を逸していることを複数人から指摘され、そうだったのかと思いました。たしかに、数年前の地震では、わが地域はさほどの揺れではなかったにもかかわらず、ビビりまくって動転した私は寝巻で家を飛び出し、ブラジャーを握りしめて意味なく歩きまわり、揺れと同時に鳴り始めたガス警報器がやまないことに怯えて各所に電話をかけ(後から判明したことには、ガス警報器ではなく倒れたエレキギターによる音でした)、ついには地域でたったひとり誰もいない避難所に避難するという有様でした(慌ててつかんできたリュックの中には読みもしない本が6冊入っていました)。とはいえ人は皆そういうもの、誰しも揺れが来ると頭真っ白になるよね、と思っていたんですが、どうも周囲の人に訊くと私の怖がりようは異様であって、「地震が来ても『あ、揺れてるな』くらい」「強い揺れに驚いたけど危険がなかったのですぐに落ち着いた」という話も聴きました――「皆そういうもの」ではなかったのか! 私は震度1程度の揺れでも頭が真っ白になり、奇声を上げながら無駄に動き回ります。動悸が激しくなり、さらにその動悸のせいでいつまでも揺れが続いているような錯覚に陥りいつまでも不安になり続けます。これではいざというとき、逆に危険かもしれません。

自分は阪神大震災を経験しているので、その記憶による恐怖というのは確実にありますが、しかしより震源地近くで同じ経験をしたはずのぺぐれす(仮)は、地震が来ても比較的落ち着いています。どうすれば地震が来ても落ち着いていられるのか?怖くはないのか? とインタビューしてみたところ、

「もちろん地震は怖いけど、起こってしまったものはしょうがないし、慌てても余計危険だから、まず一拍置いて、どうすればいいかを考える」

との答えでした。これを聞いて自分は、アッそうか! と思ったのでした。この「起こってしまったものはしょうがない」として受け止める、という境地に自分は至れていないのか。イヤ、地震が天災であるというのは知識としては分かっており、天災というのは「権外」(哲劇のエピクテトス本で知った概念です)のことであるわけですが、どうも私はそこを切り分けられておらず「権内」のこととして感じているのでは?  つまり、自分が地震を起こしたり止めたりできると信じているのではないか?―― そんな気づきを糸口に、「私はなぜ地震が怖いのか」を分析してみました。

 

1.地震は予想していないときに起きる

まずひとつ、地震はいつも予想していないときにやってきます。「天災は忘れた頃にやってくる」という諺があるように、これは一般的な実感であろうと思われます。この事実は、上で述べた、「自分が地震を起こしたり止めたりできるという感覚」とは矛盾するように思われるかもしれませんが、そこで私は、

地震は予想していないときにやってくる、ということは、常に予想していれば地震は来ないのだ」

と考えてしまっているようです。言うまでもなく実際は、予想しようがしまいが起こるときは起こるわけであり、そしてそれは知識としては知ってはいるのですが。

昨今は、しょっちゅう「今地震が起こったら……」「ここで地震が起こったら……」と半ば強迫的にシミュレーションしております。とりわけ風呂やトイレなど無防備な状態でいるとき、地震が来たら危険そうなスポットにいるとき、などですね。この強迫的な想像が恐怖感を増幅しているように思われます。最近は夢の中でも避難訓練をしています(昨日は机の下に隠れる夢を見ました)。

 

2.地震は私がはしゃいだり浮かれたりしていると起きる

上記の「地震は予想していないときに起こる」という感は、もっというと、「自分が何かではしゃいだり浮かれたりしていると起こる」ということでもあります。例の、誰もいない避難所にひとりで避難したときの地震はちょうど、海外旅行の準備をしているときに起きたものでした。揺れを感じたとき真っ先に頭に浮かんだことは、

「わー!やっぱりダメやー! うちが浮かれて旅行の準備とかし始めたからやー!!」

ということでした。

これは自分にとってはごく自然な感想であったので、特に変だと思わんかったんですが、人に話すと「なんて卑屈な!」と言われたので、変だったのだと分かりました。

 

このような発想が出てくるベースには、そもそも常に「謎の罪悪感」につきまとわれがちな気質である、ということがあります。それが何に由来するのかは謎なので謎です(その由来は哲学や心理学や精神分析学の領域だと思われますが、さしあたっては謎としておきます)。そしてこれまでに接したさまざまな物語や出来事が、そのベースを強化してきました。

物語では、強い印象を受けたのは何といっても子供の頃に読まされた絵本『赤い靴』でしょう。孤児だった女の子が赤い靴を手に入れ、教会(赤い靴は履いてはいけない)でも脱がずにいるほど浮かれていたら、最後は足を切断するまで踊り続けねばならなくなった、というお話で、キリスト教的な背景あってのお話でしょうが私はこれを「浮かれてるとろくなことにならない」という怖ろしい教訓として受け取りました。類似のお話では、昔NHKの朝ドラ(たしか『ふたりっ子』の後番組)で見た、「主人公の女性がパーティーに行ってる間にお父さんが亡くなった」という場面も印象的でした(ドラマ自体はあんま面白くなかったが)。父の死を知った彼女は、「お父さんが死んだとき、私は知らずに踊ってたのよ!」とパーティーに誘ってくれた男性を責めるのですが、「いや、そんなん言われても知らんがな……」と思うと同時に、これもやはり「浮かれてると悪いことが起きる」スキーマを強化したのでした(類似のものに「旅行等に行ってる間に家族が死ぬんじゃないか」という恐怖もあり、一時は旅先にいくと家にメールを送りまくっていました――それの返信が遅いとさらに不安になる)。が、これらのお話がそれだけ印象にヒットしたということはそもそも、自分の中にそうしたスキーマがあったのだと思われます。実際にも、「浮かれているときにろくでもないことが起こった」例は多々ありました。大学に合格して浮かれていたとき、好きな人に会えることになり浮かれていたとき、など(わりとほんまにイヤな思い出なので「ろくでもないこと」の内容は省略します)。一方で、浮かれていてもべつに悪いことが起きなかったことも山ほどあるはずですが、往々にして人は「起きなかったこと」に関しては法則化しないものですよね。

とまれこうした、もともとの気質と思われるもの、およびこれまでの物語と経験により強化された「謎の罪悪感」により、地震が起きたときにあたかもそれが自分の責任であり、もっというと自分への罰であるように感じられ、それにより恐怖が高められているのではないか、と考えます。揺れているのは自分だけじゃないはずなのですが、自分に向かって揺れている、自分への試練のように感じてしまっているのですね。一方でこの「謎の罪悪感」は、裏を返せば「謎の万能感」でもあります。天災を自らの力に帰しているわけですから。「なんて卑屈な!」と言われたと述べましたが、言い換えれば「なんて傲慢な!」とも言えるでしょう。

 

3.地震が起こるとなんかいろいろ申し訳ないことや悲しいことが起こる

上の項では「謎の罪悪感」と「謎の万能感」について書きましたが、私の罪悪感には必ずしも「謎」のものばかりではなく、現実的なものもあります。

たとえば、一例を挙げると、現在の住居を選んだことについて私は親に対しやや申し訳ない思いを抱いています。プライバシー的観点から詳細は省きますが(このブログにはプライバシー的なことばかり書いている気もするが…)、この家に住むことについて親たちはあまり賛成しておらず、それを押し切る形で契約したからです。そこへ、我が家は災害に対して諸々脆弱性のある家であり(逆にそないに鉄壁の家があるのかって話だが)、もし地震が起こって家屋の被害から自分が死ぬようなことがあれば、親たちは「だから言うたのに」「もっと止めておけば」と後悔するのでないか、そして自分も「この家を選んだせいで親を悲しませてしまった…」と思いながら死ぬのでないか…… つまり、地震そのものの被害というよりは、それによって誰かを悲しませたり後悔させたりすること(かつそれによって自分が申し訳なく思うこと)を恐れている、といえます。

が、今この例を読んだ人は、なんか変な感じがしたと思います。私も書きながら「?」となっています。心配が仮定に基づきまくっているのです。実際は、現実はいつも予想外なもので何がどうなるか分かりません。上の仮定ではなぜか自分が死に親が生き残ることになっていますが、そうなるとは限らんし(家がどうかなるほどの災害なら広範囲に影響が出るはず)、地震のときに自宅にいるとも限らんし、家がどうかなっても助かる可能性もあるし、万が一自分が死んでも親がそんな後悔をするとも限りません(ふつうに「まあしゃあないな」と思う可能性も高い)。要は、「地震が起こったら」という仮定から始まる想像が、もともと自分がもっている罪悪感を支える方向へ都合よく動いているのです。上の例はごく一例で、他にも「地震が起こったら」から始まるさまざまなシミュレーションがありますが、いずれも地震によって何か申し訳ないことになったり悲しいことになったりするパターンであり、そうした心配パターンは無限に生成されます。またそれらの物語は登場人物が少ない(上のパターンであれば登場人物が自分と親しかいない)のも特徴です。実際の災害の際には、思わぬつながりや他人との助け合いも起こるものであろうに、なんか想像が「セカイ系」なのです。

 

よって、上では「現実的」と書きましたが、これもまた「物語の過剰」といえましょう。ここで物語というのは、災害にまつわるさまざまな語りの定型を指しています。災害が起こると、人々の経験談が語られます。それぞれの語りは本来、災害にまつわる個別の現実をわれわれに教えてくれる貴重なもののはずでありますが、メディアを通じてそれを聴くときわれわれは、どこか定型として、ときに煽情的なお話としてそれらを受容・消費する、というような側面がありますよね。そうして受容・消費した中から抽出した、たとえば「あのときああしていればと後悔しています…」というような定型に沿って想像を展開する、いわば「物語化の先取り」のような心配の仕方を私はしているのでないでしょうか。

 

……このようにまとめると、以上(1)~(3)までの話はいずれも、「ふつーに地震だけを心配すればええのに、そこに過剰な意味や物語を付与したりそれによってあれこれ想像したりすることで、自ら恐怖を増幅させている」とまとめることができそうです。まあいわば「認知のゆがみ」とかいうやつですが、しかし、認知のゆがみに気づくことは、それを修正できることとはまた別です。

また、人は(自分は)何らかのゆがみ無しに生きられるものでしょうか。人はどうしても何らかのゆがみの中に生きざるをえない、と前提すると、一策としては、いっそ別の物語を生きてしまえばいいのかもしれません。たとえば「俺は喜怒哀楽の楽以外の感情が欠落してるのさ、何が起こっても恐怖や不安を感じられねえんだ」みたいな厨二病キャラとして生きていくとか……。

 

 

4.実際に地震はこわい

そして、なんやかんやいうても、実際に地震によってこれまで多くの被害が出ているのであるから、実際に地震はこわいのです。むやみに怖がるのでなく「正しく怖がろう」ということがよく言われますが(この言い方は原発事故とコロナ禍のときによく聴きました)、しかし、「不合理な恐怖」と「正しい恐怖」の線引きてめちゃムズくないですか? この「どこまでどう怖がれば正しいのかよく分からない」という不確定さ自体が、地震のこわさなのかもしれません。まあ多くのこわいものというのはそうである気もしますが。

また、(1)(2)で述べたような、「自分の力(自分の責任)で地震を止めたり起こしたりできる」という私のアレがおかしいのはまあ明らかにその通りでありましょうが、しかし災害において何がどこまで自分の責任かというのも実際難しいところです。「天災自体はしょうがないこと、しかし各自できる備えはしておかねばならない」てのがよく言われることですが、「できる備え」の範囲とは? たとえば、災害時の避難経路の確認をしていなかったのは当人の怠りとしても、家具を固定しきれていなかったのは? 被害の出やすい家屋に住んでいたのは当人のせいなんか? 災害時に頼れる係累がいないのは当人のせいなんか?……等。と、こうした中で、ようわからん罪悪感や万能感が活性化するのんもまあしゃあないんやないでしょうか、と言ってみるテスト(※この言い回し15年ぶりくらいに使ってみました、懐かしい)。ちなみに自治体作成の、大規模な震災が起こった場合のマニュアルを見てみますと、公的援助が充分機能しないことが予想されるため個人でやるべきこととして、「遠くの親戚を頼る」が挙げられてました。いや、そうなんだろうが……なんか……ひどくね?