災害と精神病と東京電力さん


2011年の地震のとき、報道を熱心に見ました。僅かではありましたが募金をしたりもしました。
それは、微震であったとはいえ自分も同じ揺れを体験したから。関東には友人もいるから。同じ日本で起こったことだから。ずっと報道されているから。さらには原発に何かあったり連鎖的に地震が起きたりしたらこちらだって他人事ではないから。でした。
が、そのちょっと前に外国で起こった地震には、ちらりとニュースを見て大変やなアと思う程度で、それほど熱心に情報を追うわけではなく、特に何もしませんでした。
知り合いは被災してないから。日本から遠くで起こったことだから。


と、われわれは、親身に・深刻になるべき対象/そうでない対象の間に、ごく自然に、個人的感情やあるいは「常識」のようなもの(国境とか人種とか)によってたえず線を引いているな、と感じたのでありました。
それは実に正常なことであって、だって、この世で起こる全ての不幸にいちいち親身になり深刻になっていたら、一秒たりとも笑える瞬間はないし、お給金だってすべて募金に消えていって自分の生活などできません。


同じ国で起こった災害や事件に対してだって、どこかで線を引いていて、それは正常なことです。
報道される被災者や被害者の心中を想像しても、日がな一日その心配ばかりしているわけではなく、報道から離れればとりあえず自分の日常の中で仕事したり遊んだり。
自分や身近な人の身に起これば深刻な悲嘆を起こすであろうことでも、知らない人の身に起こったことであれば、気の毒だ、ひどい、と感情移入しつつご飯も食べるし睡眠も取る。或る意味では二重の見当識のような中をわれわれは生きていて、でもそうでなくては生活も世界も成り立たないし経済も回らないでしょう。


精神病の診断を受けている友人は、災害や事件が起こると、「自分のせいではないか?」と不安になるといいます。
そしてそれは、自分が何かせねば、でも何もできない、という無力感につながっていきます。
震災のとき、節電が必要と聴いて私は、とりあえず自分のいる部屋以外の電気を消し、自分のいる部屋の照明・暖房・PCの電気は残しました。今のところこれができる範囲。自分にできる範囲で、できるだけのことをすればいい。それは一般的な正常な判断だったと思います。
しかし友人は、「暖房をつけていていいのだろうか?」「照明をつけていていいのだろうか?」「ここにいていいのだろうか?」とパニックになったといいます。
彼の中では、親身に・深刻になるべき対象/そうでない対象の間にわれわれが自明のように設けている、線引きが上手く行かず、自分と世界はダイレクトにつながっているのでした。
「とりあえず今できることはないんだし、われわれは普通に生活するしかないよ」と宥める周囲に、「そんなことはできない」と彼は言うのでした。世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない、といった宮沢賢治を思い出しました。


そういえばあの頃に認知症の症状が悪化し始めた祖母もそうでした。テレビを見ながら「京都は無事でよかった」と言いつつも、そう言ったかと思えば、「外は瓦礫で危ないから出たらあかん」と出かけようとする私を引き留め、「水が氾濫して外は歩けへん」と言うのでした。
祖母の中でもやはり、テレビの中の世界と今ここが、ダイレクトにつながってしまっているのでした。


が、実際、自分と世界はダイレクトにつながっているはずです。しかし正常ということは、そのつながりに不断に線を引き続け壁を建て続ける、つまり(むしろこちらこそ)不断に統合を失い続ける、異常なバランスの上に成り立っていることであります。


最近また、友人が、ある事件が「自分のせいのような気がする」と言っているその一方で、トーデンの人はあの人災に自分は関係がないような顔をしていて、どっちが異常ねん、と月並みなことを想ったのでした。