がんばって「自己啓発本」を読んでみるの巻(4)『完訳 7つの習慣』/ここまでのまとめ

べつに誰に頼まれたわけでもない自己啓発本を読むシリーズですが、これでラストにしたいです。『7つの習慣』、自己啓発業界に明るくない自分でもタイトルを聴いたことがあるくらいなので、自己啓発の親玉みたいなものなのかな? これは読んでおこうかな、と思って読んでみました。

 


■『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』

ティーブン・R・コヴィー著、
フランクリン・コヴィー・ジャパン訳、
キングベアー出版、2015

 

 私の読んだやつは2015年の版ですが、amazonを見てみると30周年版とか25周年版とかオーディオ付きとかめっちゃバリエーションが出ている! のちには『第8の習慣』とかも出ているようで、amazonで検索するととにかくズラーッと似たような表紙が出てくるのでお試しください。

 


 著者、スティーブン・R・コヴィーは、アメリカの経営コンサルタントで2012年没。本訳書を出版しているキングベアー出版というのは、あんまり知らん出版社やなと思ったら、FCEパブリッシングというところが母体のようです。そしてFCEパブリッシングを擁するFCEホールディングスというところが、企業や学校に『7つの習慣』をもとにした研修事業などを行っている会社なのですね。ここと、本書の訳者となっている「フランクリン・コヴィー・ジャパン株式会社」は提携企業だそうです。

 自分はちゃんとした(?)企業研修とかを受けたことがなく、とにかくそういうのを避けて通ってきた人間なので、「7つの習慣」がそんな一大事業になっているとは、知らん世界でした。

 

 この本の構成も、普段よく読むジャンルの本とは違って驚かされました。まず最初に「フランクリン・コヴィー・ジャパン株式会社 代表取締役社長ブライアン・マーティーニ」「『成功の9ステップ』著者・ライブセミナー講師ジェームス・スキナー」による序文があり、その後各界の著名人の推薦文がずらっと並ぶ、という形です。帯に著名人による推薦文があったり最後に解説があったりするのは普段から見ますが、最初に推薦文が来る形式はあまり見たことがなく。自己啓発文化圏ではよくある構成なんでしょうか。玄孫の推薦文とか載ってる時点でもうちょっとテンションが下がったのでしたが……。

 

自己啓発が嫌いな人が好きそうなことが書かれている

 まず、本書の感想としては、自己啓発が嫌いな人が好きそうなことが書かれている!」ということです。

 本書の基本的な主張は、サブタイトルにあるように「人格主義の回復」です。人格主義とは何か。まず、著者は、アメリカ独立宣言以降の「成功に関する文献」の批判的検討から話を始めます。つまり、自己啓発本批判から始まるのです。これによると、最近50年に書かれたものが表面的な話に留まるのに対し、建国後約150年間に書かれたものは、内面の人格的なことを成功の条件としているのだといいます。著者は、WWI後に「人格主義」が「個性主義」へシフトし、成功のためのテクニックやコミュニケーションスキルやポジティブシンキングが強調されるようになったことを、批判的に指摘しています。さて、われわれ「自己啓発」嫌いは、おそらく「コミュ力」や「ポジティブ」の賞賛が嫌いなのだと思います(嫌いですよね?)。そういうものに対し「ケッ」と思ってきたと思います。まさに、著者も同じようなところから始めているのです。

 そして著者が唱えるのは、表面的な自己の成功だけでなく、それを支える土台である「優れた人格」を築くことです。

「人格主義の土台となる考え方は、人間の有意義なあり方を支配する原則が存在するということ」(p.28)

 「7つの習慣」とはこの新しい思考を指します。それは、「依存→自立→相互依存」(p.51)へと至る成功の連続体を導くアプローチであるとされますが、

「にもかかわらず、現代社会のパラダイムは自立を王座に据えている。多くの個人、社会全般は自立を目標に掲げている。自己啓発本のほとんどが自立を最高位に置き、コミュニケーションやチームワーク、協力は自立よりも価値がないかのような扱いである」(p.54)

 このあたりも、「自己啓発」嫌いたちにはぐっとくるところではないでしょうか。「自己啓発」嫌いたちはおそらく、「自立」パラダイムが嫌いですよね? まあ「自己啓発嫌い」にもいろんな人がいるでしょうが……。そういえば「自己啓発嫌いの研究」(自己啓発嫌いの人が「自己啓発」をどのようなものととらえどんな点を嫌っているのか)って面白いんじゃないかな?とふと思いました。もうあるのかな? ……話が逸れました。

 

■ 「自己啓発あるある」もある

 第一部で上記の考え方が説明されたのち、それに従って、第二部では、7つの習慣の考え方と具体的な方法が示されます。一応、第1から第7まで記しておきます。

第1の習慣: 主体的である=他の6つの習慣の土台となる

第2の習慣: 終わりを思い描くことから始める

第3の習慣: 最優先事項を優先する

第4の習慣:Win-Winを考える

第5の習慣:まず理解に徹し、そして理解される

第6の習慣:シナジーを創り出す

第7の習慣:刃を研ぐ

 各章で各「習慣」が具体例やたとえ話を伴って解説され、各章の終わりには練習問題が付いています。解説の中では、上述の「自己啓発嫌いが好きそうなこと」とともに、自己啓発あるある」な言説とも出遭うことになります。

 たとえば、第1の習慣の章では「遺伝子的決定論心理的決定論(育ちや子供時代の体験のせい)、環境的決定論(上司、配偶者、経済情勢、国の政策のせい)」という3つの決定論が批判されます。フランクルが持ち上げられる一方フロイトが幼児期決定論として批判されるのは『嫌われる勇気』と同様ですが、同時にS-R行動主義も批判されています。著者は苛酷な体験を経て「刺激と反応の間には選択の自由がある」(p.79)という原則に気づいたのだと言います。この考え方に出遭ったエピソードは結びにも書かれており、そのとき彼は「初めて真実を知った」「自分の中で革命が起きた」ような感じを覚え人生のパラダイムが変わったのだといいます。ここから、「自分の行動に責任を持ち、状況や条件づけのせいにしない」(p.81)という自己責任論につながってゆくのは、THE自己啓発という感じです。

 その他、右脳/左脳の使い分けを説いた箇所や、交流分析を援用している箇所なども、THE自己啓発だなあ、と思いつつ読みました。一方で、効率性偏重に対する批判や「人生を競争の場ではなく協力の場ととらえる」(p.289)というくだりなどは、自己啓発嫌いが好きそうな言説です。

 

■ 文化的背景

 第7の習慣「刃を研ぐ」でいわれる「刃」とは、人間の4つの側面(肉体/精神/知性/社会・情報)を指します。その刃を研ぐための習慣として、著者は、筋力をつけるなど肉体を鍛えることとともに(また筋トレだ!前回参照)、精神面では、「文学、音楽、自然との対話」を挙げています。なんか格調高いです。「自己啓発」と呼ばれるもののよく分からなさとして、反知性主義(※問題あるワードだとは思うがよく用いられるほうの意味で便宜的に用います)の傾向に近いものがある一方、知性や文化に親和的だったり哲学ぽかったりするものもあるという、グラデーションがあるんやないか、とふと思いました。(自己啓発嫌いの中でも、前者が嫌いな人と後者が嫌いな人で傾向が分かれそう)

 話が逸れましたが、著者はこの精神面の研鑽について、
私の場合は、毎日聖書を読み、祈り、瞑想することが精神の再新再生になっている。聖書が私の価値観をなしているからである」(p.432)

 と述べています。文化的背景として宗教の存在が感じられるのも本書の特徴です。第2の習慣では、「終わりを思い描く」習慣を身に着けるために効果的な「ミッション・ステートメント」を立てることが勧められるのですが(余談ですが「終わりを思い描く」は私の苦手なやつです……できないよー!)、それは、「その人の憲法」として合衆国憲法になぞらえられています。そして、ミッション・ステートメントの価値観に沿うために行うのが、「右脳を使ったイメージ化」と「自己宣誓書」ですが、そのプロセスについて著者は、個人的な聖書研究をもとにしているとも述べています(具体的なことはよく分かりませんが)。

 そもそも、「終わりから考える」という発想、そのために一貫したアイデンティティをもつべしという発想も、「最後の審判」的発想なのかもしれません(?)。本書は、日本でも自己啓発書の親玉的に受容されているようですが、キリスト教の伝統の無い本邦において、このあたりの背景はどのように受容されているのか、スルーされているのか、気になるところです。

 

■ まっとう……なのに装いがあやしい!!

 本書の全体的な印象としては、「格調高くてまっとうなことが書いてある!」というものでした。私は、「競争に勝て!他人を出し抜け!人のせいにすんな!」みたいな言説がつらいから自己啓発が嫌い、というタイプの「自己啓発嫌い」であり、本書は、いくらかはそうした面も含みつつ、しかし上で述べてきたように、そんな「自己啓発嫌い」たちが好きそうな言説を軸にしています。「人格主義の回復」という根本のテーマがそもそもまっとうです。

 ……が、それなのに、装いがなんか胡散臭く感じられるのはなんでなのか!!

 たとえば、私の読んだ版には「世界最大級ライブセミナーから厳選した秘蔵映像81分」のDVDというのも付いていまして、律儀に見ようとしたのですが、壊れているのか再生できず、「PCで見られない人はこちら」というURLにアクセスしたら81分の動画はなく「メアド登録で特典映像プレゼント」というサイトが出てきたのでした。そしてそのサイトのデザインも、THE自己啓発! という感じでなんかもう……とブラウザを閉じたのでしたが、この「あやしさ」ってなんなんやろ……なんでそう感じるんやろ? 情報商材?とか「聞き流すだけでペラペラに」系の英会話教材とかにありそうなデザインというか。配色?フォントの大きさ?右上の人物の写真? 私たちは何に胡散臭さを感じるのか……これもまた研究テーマになりそうです。(このURLです:https://tj.truenorth.co.jp/trk/7h/index_prz.php

 

 

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■ これまでのまとめ

 さてここまで、数少ないながら「自己啓発本」とされる本を読んでの感想です。

・一口に自己啓発本といってもいろいろある(当然か)

・とはいっても共通点もある(当然か)

・いろいろある中で自分は、金持ち父さん系自己啓発は苦手だが、身体技法系やスピリチュアル系にはある程度親和性があるかも。自己啓発嫌い(好き)の中でも、どんな自己啓発が嫌い(好き)か、はたぶん違うと思われる。

・身体技法系万能感は、自分のかつてのダイエット心性と共通する(前回参照)

 

 この「ダイエット心性」と関連して触れておきたいのが「ニーバーの祈り」です。これまで読んだ中では『嫌われる勇気』『7つの習慣』『究極のマインドフルネス』に登場した「ニーバーの祈り」、私はアルコホリックアノニマスを通して知りましたが、自己啓発本界でも人気もののようです。そもそも「自己啓発」って、「自分のできること・できないことを切り分け、自己の領分だけに注力する」というものですものね。

 たとえば、『7つの習慣』は、「私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである」(p.84)と述べたうえで(認知行動療法的!)、「影響の輪と関心の輪」なる概念で以て自分でコントロールできるもの/できないものを分け、影響の輪の外(「他者の弱み、周りの環境の問題点、自分にはどうにもできない状況」が例として挙げられている)に労力をかける人は人のせいにしやすい人であると戒めています。一方そうでない人は、影響の輪の中にのみ労力をかけるとします。ここで、ニーバーの祈りが引用されています。

 しかし、この切り分けが難所であり、またこの切り分け方に個性(思想の違い)が出るのであるな、と思いました。「神よ、変えることのできないものを受け入れる冷静さを我に与え給え、変えることができるものを変える勇気を我に与え給え、そして、それらを見分けるための知恵を与え給え」。しかし、自分の力で変えうるものと変えることができないものをどのように分けるのか。メンタリストによると「見分けるための知恵は、科学が与えてくれます」(『究極のマインドフルネス』p.118)とのことでしたが……。

 私が自己啓発的なものにずっと反発があったのは、それらが、社会を変えようとする人を侮蔑して自己の利益のためにのみ注力することを勧めてくるような感じがしていたからであり、その感じについて「なんかイヤ」と感じていたからだと思います。たとえば「賃上げデモをする暇があれば金を稼げばいいのに」みたいな言い草に見られるアレです。デモをする人はそもそも、自分ひとりが良くなりたいのではなく社会全体を良くしたいからこそデモをしているのに、それを愚かなこととして嘲笑するのがなんかイヤやな、と思うわけですが、この言説においては、「自分の稼ぎ」を「変えることができないもの」として、「全体の賃金の水準」を「変えることができないもの」として切り分けているわけで、しかし、本当にそうなのか? と。切り分け方はもっといろいろあるやないか、と。類似のことは、哲学の劇場『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』(筑摩書房で、ストア派の「権外/権内」概念を述べる際に論じられていたと思います。ストア派といえば、ずっと、哲学-自己啓発心理療法(特に認知行動療法)のつながりが気になっていて、今年認知行動療法の哲学』(金剛出版)という本を読んだんですが、いろいろスッキリして大変勉強になりました。この本の解題で東畑開人さんが書かれていた「ただし、そのようなやり方(注:権内に属することと権外に属するどうにもならないことを切り分けること)が、権力による人々の統治戦略になりうることも忘れてはなるまい」という言葉が、まさに、自己啓発本を読みつつ自分が気になってたとこやなあ、と思いました。

 一方で、前回書いたように、「とにかく目の前のことをやる」という方略は、自分のダイエット時の心性(ダイエット心性)によく似ています。「とにかく目の前のことをやる」は、思考停止・視野狭窄につながる方略でもありますが、目の前のことが不安なまでに広く広がりすぎているとき人は視野を狭める方向に向かいたくなるのでしょう、私がダイエットに熱中し始めるのはだいたい、漠然とした不安があるときや先が見えないときでした(まあいつも見えないのですが)。たとえば、10kg減を達成したのは浪人生のときでした。それまで一応高校生という身分があったのが、所属がなくなり不安定な状態でありました。社会的にも、震災の二年後でサカキバラ事件があった年であり(その心理的影響は詳述しませんが)不安が喚起されることが多い時期だったと思います。このときに、体重の数値という具体的なもの、自分の身体という最も手近なものが明確に変わっていくのは、非常に心の拠り所になるものでした。先ほど、お金系の自己啓発本が苦手だと書きましたが、この数値が減る感覚は、蓄財の感覚(お金が増えていく感覚)と似ていたと思います。

 もちろん、不安でしょうがないときやどうしていいか分からないとき、「とにかく目の前のことだけをがんばろう」という対処法は時に有効です。しかしここで面白いのは、「目の前のことだけをがんばること」(ここではダイエット=自分の身体を変えることだけに熱中すること)が、謎の万能感に結びついていたことです。「痩せればすべてが変わる」という幻想に囚われるし、やらない人に対して、なんでやらないんだろう、やったら結果が出るのに、って気持ちになるんですよね。「デモをするより稼げ」も、単に「どうしようもない世の中だからとりあえず処世術として自分の生活だけがんばろう」という次善の策としてではなく、稼ぐことがデモをする効果を凌駕する力をもつかのようにアピールされるじゃないですか。あれも私のそれと同じ、「謎の万能感」なのかもしれません。あるいは「権内イキり」と言ってよいかもしれません(「権内のこと=変えられること」だけに勤しんでいるはずなのにそれを以てすべてを凌駕できるような気になってしまう)。

 そう思えば、スポーツ観戦後ゴミ拾いとか素手トイレ掃除とかもその系譜なのかもしれません(できる範囲をきれいにすることが国民の美徳みたいなでかいものや何らかの精神性に結びつく)。「トイレの神様」があんま好きでなかったんですが、その理由が今言語化されました。

 

 だんだんとりとめなくなってきましたが、話を変えまして、今気になっているのは、「ダメのための自己啓発」のようなものです。詳しく言うと「一般的には自己啓発の範疇に入らないが自分にとっての自己啓発的なもの」、ざっくりいうと「おれが好きなやつ」です。車谷長吉『人生の救い』とかトモフスキーの歌詞とか。これらは好きなものなんですが、一般的な自己啓発とぜんぜん違うのかどこか似ているのか、世のすべては自己啓発なのか、等々考えたり、まあなんかまた書くかもです。