がんばって「自己啓発本」を読んでみるの巻(1)『金持ち父さん、貧乏父さん』『チーズはどこへ消えた?』『嫌われる勇気』

去年、ツイッターで「おすすめ本100選」みたいなツイートがバズって炎上した、という事件(というほどでもないか…)があったのをご存知です?

読書の秋ということで、「本を読もう! 人生を豊かにしよう!」的な感じでおすすめ本100冊のリストを紹介したツイートがあったのですが、その100冊がすべていわゆる「自己啓発本」であり、
「偏りすぎやろ」
「もっと、ちゃんとした人文書や古典を読むべき」
こち亀全巻読むほうがいい」
などのコメントが飛び交い、更にそれに対して、
「本に序列をつけるなよ」
「上から目線で他人が読んでる本をバカにして、だからインテリはダメ」
みたいな批判が起こり、更にそれに対して、
「だってしょうもないものはしょうもない」
「インチキなものはインチキというべき」
みたいな反応もあり……って感じでした。


どうもSNSというやつは、本来ならそのへんですれ違って終わる他人の意見や嗜好が可視化されてしまうせいでこういう「炎上」が起こるようで。私も、他人が好きで何を読んでようがどうでもいいし、いちいち文句つけんなよ、という立場です。
……と言いきれればよいのですが、実際は、そう思う一方で、自己啓発本100みたいなもんを嘲笑したりあるいは憤ったりしたくなるのも、実に分かる! ついつい何か言いたくなってしまう! そういえば、『臨死!江古田ちゃん』の、一夜をともにした男の本棚を見たらソレ系の本が並んでて「またつまらぬものを食ってしまった……」ってネタが好きでした。


そう、好きな人がいたら申し訳ないんですが(当ブログに来る人にそんな人はいなさそうな気もしますが)、私は「自己啓発本」みたいなものはとにかくイヤで、本屋のベストセラー棚に並んでるとササッと前を通りすぎるほどです。嫌いというよりは毛嫌い、なんか苦手なもの、近づきたくないもの、っていう感じかな。
しかし、なぜ私はそんなに「自己啓発本」が苦手なのでしょうか。ろくに読んだこともないのに(註1)*1
なんか説教臭そうだから、偉そうな感じがするから、など色々理由は思い浮かびます。しかし、自分も「自己啓発本」ではないにせよ何らかの書物や文章から人生訓を得て励まされることはあります。また、私が関心をもってきた分野(たとえば心理学や現代思想)に、「自己啓発」は隣接していなくもありません(実際、哲学者や心理学者の名を冠した自己啓発本もありますよね)。「ちゃんとした学問」「ちゃんとした本」と「自己啓発(本)」ってそんなにあっさり切断してよいのか? という気もします。
そもそも「自己啓発本」ってどの範囲を指すのでしょう。なんとなく「意識高そう」(便利な言葉ができてくれたものです)なビジネス書やスピリチュアル系の本とかをまとめてそう呼んでいるけれど、厳密な定義ってあるのでしょうか? この点は後述するとして、とりあえず、避けてきたそれらにどんなことが書いてあるのか知るため、炎上ブックリストから何冊か気になるやつを読んでみることにしたのでした。(誰に頼まれたわけでもない苦行)

 

 

●その1:
『金持ち父さん 貧乏父さん』ロバート・キヨサキシャロン・レクター著、白根美保子訳、筑摩書房、2000.

まず、タイトルだけでもう嫌いだと決めつけて避けてきたこの本からチャレンジすることとしました。
2000年のベストセラーです。私が読んだものは2009年の77刷でした。金持ち父さんシリーズはその後も出続けているらしく、上述のブックリストでは新しいやつが挙げられていたのですが、とりあえず最初に出たコレを読むこととしました。


最初に断っておくと、私はかなりの経済音痴であり、金のことを考えるのが苦手です。金儲けとかどうすれば得かとかをあれこれ考えるのが愉しい人もいるんでしょうが、むしろストレスです。金を遣って生きており金は欲しいのであるから、これは端的に自分の欺瞞であり短所であるとは思います。
そのようなわけで、この本を、経済や経営の観点から評価する能力はありません(まあそもそも誰も評価しろとか頼んでませんが)。ひとことでまとめると、「勤労所得でなく不労所得をふやして金持ちになれ」というのが本書の主な主張です。この根本的な部分については、本書を愛読書として挙げる金持ちがいることを思えば良い本なのかもしれず(これが愛読書であることと金持ちであることに因果関係を仮定すればですが)、これがベストセラーになったにも関わらず多くの人が金持ちでないままであることを思えばインチキなのかもなあ、くらいしか分かりません。専門の方から見て、どの程度妥当な(現実的な)主張なのかは聞いてみたいところですし、書かれた時代と現代との違いや、アメリカと日本の背景の違いなども気になるところです。

ともかく内容の妥当性については判断できないため、以下、主に本書の表現や世界観(?)に注目した偏った感想となります。

 


【感想1:なんで私は金の話が嫌いなのか】

そもそもが「なぜ私は自己啓発書が嫌いなのか」という問いに発した読書であるので、嫌いなとこ探しというバイアスのかかった読み方になってしまうのですが、しかし実際これを読んで、自分が金の話(金儲けの話)が苦手な理由の一端が分かりました。


以前に起業家の人と喋っていて、途中までは「発想力や行動力で成功されてスゴイなあ」と思うて聴いておったのですが、今の若者は斬新な頭の遣い方ができない、という話になったとき、「バカはいつまでもバイトでちまちま稼いでたらええわ」と言うので、すべてが嫌になり以後トイレに籠った……ということがありました。この人の企業もバイトに支えられているであろうに、ああこの経営者はバイトを「ちまちま稼ぐしかないバカ」と思ってるんやな、と分かってどうしても話を聴く気がしなくなったのでした。
勿論、人に使われるのに満足できぬなら起業してしまおう、という考え自体は素晴らしいと思います。しかし一方で、給与をもらって地道に働く人もそれなりに生活していけるならそれもまた良いことであろうと思うのですが、そうした働き方は何かバカにされるべきことである、という価値観があるようです。『金持ち父さん』も、基本的にこの価値観で書かれています。


また別の起業マニアのような人のことも思い出しました。彼は、困っている人を手助けするという行為について、
「それをビジネスチャンスとしてとらえなきゃ!」
と、やはり人々が「頭を遣わない」ことを責めていたのでしたが、
「うーん、そうかもしれんが、しかしなんか、うわあ……」
という気分になったのでありました。
むろん私も、人助けの報酬をもらわないことが必ずしも美徳であるとは考えません。たとえばこれまで家事労働について指摘されてきたように、不払いで不当に搾取されてきた労働がどれほどあることでしょう。しかし彼(起業マニア)の発想は、そうした、権利として労働の対価を要求すべき、という発想とは少し違ったようです。それはいうなれば、あらゆる機会を金を生むチャンスとして考えるべき、そうして他人を出し抜くべき、という倫理であり、そうしないことは「バカ」なことであるようでした。(彼はその後怪しいスピリチュアル商売を始めました)


こうした、他人を出し抜くことを賢いことであり、かつ倫理的なこととして、そちらへ人々を追い立ててゆくような価値観が、どうも自分のようなぼんやりした人間には息苦しい、端的にいえば疲れる、というのが、私が金の話(金儲けの話)が苦手な一因でありましょう。以上は要は、「金持ちはそうしてすぐ人を見下すからむかつく」「ボーッと生きてんじゃねえよ、っていうけど、ボーッと生きてえよ!」という愚痴なんですが、それ以上に疲れるのは、金の話をするとき人はどうしても、即物的な話をしているようで、倫理や思想の話をしてしまう、という点であります。これについてはまた後に。
ところでこうした、人を出し抜いて儲けることを倫理とするような風潮って、何に由来するのでしょうね。貧困=怠惰=悪徳とする伝統的な価値観なのでしょうか? あるいは、新自由主義グローバリズムの時代に特有のものなのでしょうか? このあたりも識者に訊きたいところです。最近は、それを巡る葛藤(人を出し抜いて得をすべき/それはヤだ)を、公的な制度の中においても覚える機会が増えた気がしています。たとえば「明らかに変な制度だと思うけど知ってて使わないと損」みたいなやつとか(例:ふるさと納税)。

 

【感想2:シンプルさが強調される】
 
本の感想というか自分の愚痴になってしまいました。もうちょっと感想らしいことを書きましょう。

本書の全体の印象として、「シンプルさ」が強調されていることを感じました。これは自己啓発書というものの特徴なのかもしれません。ややこしそうな「会計学」の話も、実にシンプルな図で解説されています。

「金持ちになりたいと思ったら、長い目で見てこれ(注:会計学)ほど役に立つ学問はない。問題はこの退屈でわかりにくい学問をどうやって子供に教えるかだ。答えは簡単、それをシンプルにすればいいのだ。まず図で説明すればいい」(p.91-2)

として示される図は、細かな数値などは捨象されたほんまに超シンプルな図で、たしかに会計学などわからん私でも分かるような図です。たぶんこれで会計学は分からないでしょう。会計学の専門書じゃないからいいんでしょうけど……。
昨今、ネットの自己啓発好き界隈で「図解」というものが流行っていることを知りました。自己啓発書100選バズの人も「図解師」を名乗っていましたし、検索すると「図解師」という肩書の人が多数存在していることが分かります。「図解」と自己啓発は相性がいいようです。


とにかく、深さや複雑さよりシンプルさを強調するというのは、本書の一貫した傾向であり、その主張においてもそうです。
「お金を増やすために必要なのは、簡単な算数と常識」(p.169)――それなら多くの人はなんで金持ちになれてないんだ、と思いますね(金持ち父さんに言わせれば「多くの人はその簡単なことも分かっていないからだ」ということなのでしょうが)。また、「専門性を高めれば高めるほど深く罠にはまっていった」貧乏父さんに対し、金持ち父さんは、

「人生で成功するのに必要なのは、書く、話す、交渉するといったコミュニケーション能力だと言ってもよい」(p.198)


とも述べています。

 

【感想3:「アンチ学校教育」は共感されやすい】

専門性を不要とし、コミュニケーション能力なるものを偏重するのは、学校教育への軽侮にもつながっているでしょう。本書は2パートに分かれており、導入としてシャロン・レクター(公認会計士経営コンサルタント・3児の母、という肩書)による紹介の後、ロバート・キヨサキによる「教えの書」が始まります。
シャロン・レクターによる序は、

「いま学校で、子供たちが実社会に出るための準備が充分になされているのだろうか?」(p.7)


という問いから始まります。
学校教育への懐疑は本書全体に現れます。「学校では教えない〇〇」みたいな本もぎょーさんあるように、学校disは人の心をとらえやすいのでしょう。私も学校嫌いやったんで分かります。「〇〇卒」を掲げるコンサルの人も、大学で勉強することをえらくdisってましたっけ(じゃあなんで卒業したんや)。しかし、「学校で勉強することには意味がない」というフレーズは既に陳腐化されていて、もはやそれ自体が意味がないようにすら思います。


では、なぜ学校教育に意味がないのかといえば、勉強していい仕事に就いてふつうの生活を手に入れても、「ラットレース」に巻き込まれるだけであるからです。
もはや、「勉強していい仕事についてふつうの生活」をできるのが前提とされているのは現代の日本の貧しい状況には合わないような気もしますが―― しかしこの「ラットレース」のつまらなさ自体には、多くの人が共感できるところでしょう。
「ラットレース」とは、真面目に金を稼いでも、税金が増え・支出が増え・金の支払いに追われ、「彼らの無知を利用して金儲けをする金持ち連中」(p.12)のために働き続ける生活のことを指します。この中でわれわれはずっと、「恐怖と欲望という二つの感情に走らされ続ける」(p.67)こととなります。

 

【感想4:その通りやなと思う現状分析、しかし……】

キヨサキ氏の現状の分析自体は、その通りやなと思う点はたくさんあります。

「まず会社のオーナーのために働き、次に税を納めることで政府のために働き、あとの残りは抵当権を持っている銀行のために働いている」(p.122)

この、労働者の置かれた状況のバカバカしさについての記述は、おおざっぱには正しいのでしょう。というか、ほぼ『資本論』と同じ、古典的な指摘ではないでしょうか(註2)*2
しかし、そこで提示される解決は、社会的な不公平の解消を訴えることでなく、ひとりひとりが金についての知識、つまり「ファイナンシャル・インテリジェンス」を高めることです。金持ち父さんは、大きな政府による再分配を信じません。「『金持ちから取り立てろ』とがなりたてる連中がどんな手段を使ってこようと、金持ちはいつもそれを出し抜く策を見つける」(p.135)のですから。


持てる者と持たざる者の差が広がり続けているという危惧も、まったく正しいものでしょう。金持ち父さんは、経済格差による命の不平等を憂えてさえいます。財産が「誰を生かし、誰を死なせるか」という判断材料になり、「あまりお金を持っていない人たちは適切な医療が受けられない場合がある。そして、その一方で金持ちだけが適切な医療を受けることができ、長生きすることになる」(p.192)。
しかし、ここまで言いながら彼が責めるのは、「だから私は疑問に思うのだ――会社に雇われている人たちは将来のことをきちんと考えているのか」と、(一介の被雇用者であり続けるがために)適切な医療を受けられない人々の考えの浅さの方なのです。

 

【感想5:金持ち父さんはなぜ金持ちになりたいのかよく分からない】

表題の金持ち父さんと貧乏父さんというのは、キヨサキ氏の「二人の父」ということになっています。貧乏父さんが著者の実父、金持ち父さんが友人の父親であり、著者は実父を軽蔑し金持ち父さんのところへ「ファイナンシャル・インテリジェンス」を高めるための教えを求めにゆきます。

「あの……その前に一つ質問してもいいですか?」
「いや、だめだ。いますぐ決めるんだ。私は忙しいんだ。むだにする時間はない。いまここで決められないのなら、どっちにしても金儲けの方法をマスターするのは無理だ」(p.46)

弟子入りの際のこんな会話は、まんま「それ、山師の手口やん! マルチ勧誘が言うやつやで! 騙されたらあかんで!」って感じで気色悪いですが、ともあれ、著者は金持ち父さんの下で働きながら教えを受けることとなります。この教えに、まさに「私が金持ちが嫌いな理由」が凝縮されており、めっちゃイライラしながら読みました。
金持ちはもっと税金を払って貧しい人を助けるべきと考える貧乏父さんに対し、金持ち父さんは、
「税金は生産する者を罰し、生産しない者に褒美をやるためのものだ」(p.29)
という立場です。そして、いかにして税金を免れ、搾取されない側に回るかを語ります。ここで面白いのは、金持ち父さんの意識としては、「搾取する側に回る」のでなく、あくまで「罰されることから逃れる」という被害者ポジなのですよね。このあたりは、生活保護等の福祉を弱者の特権と考えてしまうような意識に通じているところでしょう。
そして金持ち父さんは、搾取される側の困窮を、あくまで彼らの自己責任に帰します。

「うちではサトウキビ農園や政府の役所ほどたくさんの給料を出していない。そのために、私がみんなを搾取していると言う人もいるけれど、私に言わせれば、みんなは私にではなく自分自身に搾取されているんだ。原因は自分の恐怖で、私じゃない」(p.58)
 
「貧乏や金詰りの一番の原因は国の経済や政府、金持ち連中のせいなんかではなく、恐怖と無知だ。人間を罠にかけるのは自分から招いた恐怖と無知なんだ」(p.74)

 
格差についての現状認識を経たうえで、しかしそれは、負け組たちの恐怖と無知の責任である、というわけです。こうして、金持ちが知恵でもって人を出し抜き納税を放棄することが肯定され、それができない者は軽蔑の対象となります。
軽蔑といえば、たびたび現れる「感情」への軽蔑も興味深いところです。「感情に支配されず、頭でものを考える」「感情をコントロールする」(p.79)……など、この「感情」蔑視は昨今の「お気持ち」というネットスラング(おれの嫌いなネットスラングのひとつや)を思わせて興味深いです。しかし、「感情に支配される」のと「頭でものを考える」のはどう違うのか? といえば、たとえばこんなふうに説明されているくだりがあります。

「たとえば『人はみんな働かなくちゃいけない』『金持ちはみんなペテン師だ』『給料をあげてくれなければ仕事を変わる。安くこき使われるのはまっぴらだ』『この仕事は安定しているから気に入っている』とか言う人は感情で考えている。そうじゃなく、『自分に見えていないことが何かあるんじゃないか?』というふうに自問すれば、感情的な思考を断ち切って、はっきりした頭で物事を考える時間ができるんだ」(p.82)


「感情=思い込み」くらいの意味で使われているようですが、「感情に支配されるからこう考えてしまう」というより、「こう考えてしまう人は感情に支配されている」という説明になっており、つまりは「被雇用者の立場に甘んじつつその権利を主張するやつは感情的」というレッテルでは?――と見えるのは私が感情的だからでしょうかね?
現実的には、現状の中で個人が生き抜く方法を目指すこと(ファイナンシャル・インテリジェンスとかいうやつを高めること)と、不公正の是正を願い訴えることは両立可能なのではないか? と思うのですが、金持ち父さんの世界では両者は相容れないこととして語られ、前者は理性と合理の世界、後者は感情の世界のものとされています。


なんかまたぼやきのようになってきましたが、しかし、ここで面白いのは、金持ち父さんの教えが「金持ちになればいい」という教えであるのかといえば、そうでもなさそうなところです。これがこの本の面白いところだと思います。
「金持ちになっても問題は解決しない」(p.70)と金持ち父さんは言います。

「人は欲望のために働く。お金で買えると思っている喜びを手に入れるために、お金をほしいと思うんだ。でも、お金がもたらしてくれる喜びはたいていあまり長続きしない」
「だから働き続けるんだ。恐怖と欲望でゆがめられた魂がお金によって癒されると思ってね。でも、お金にはそんな効果はない」(p.70)


これは金持ち父さんが「ラットレース」について語るくだりであり、つまり欲望と恐怖に駆動されている限りは、人は幸福にはなれないというわけです(註3)*3。ですが、ほな、どうすれば幸福になれるのか? という点については明確に語られません。
金持ち父さんは金持ち父さんでありながら、お金という幻想を指摘しさえします。人々が幻想にすぎない金を信じているのは恐怖と欲望のせいであるとし、金本位制を信じる人たちの将来を心配してもいます。一方で、金持ちはお金が幻想にすぎないことを知っているのだと金持ち父さんは言います(p.82)。
しかし、金持ちとそうでない人の違いは何なのでしょうか? 恐怖と欲望ゆえでないなら、彼らは何ゆえに金を稼ぐのでしょう。勿論、金がたくさんあれば、できることは増え自由度は上がる、というのは分かります。金持ち父さんは言います。

「彼ら(金持ち)には物事を変えるために必要なお金も、力も、そして強い目的意識もある。ただだまって、増えた税金を自分から進んで払うなどということはしない」(p.138)

とすると、金持ちが金や力で以て「物事を変える」目的は、金持ちであり続ける(=税金を払わないようにする)ためであり、やはりその金を使って何をするのかはよく分かりません。上で「被害者ポジ」という言い方をしましたが、金持ち父さんは金を搾取する者を「いじめっ子」と表現しています。そして「お金に関して賢くなり、『いじめっ子』にこづきまわされないようにする」(p.140)ために、法律やシステムを知る必要を説きます。それはそうなんでしょうが、いじめっ子から逃れて、金持ち父さんはどうするのでしょう。いじめる側に回りたいのか、他のいじめられっ子を助けてやりたいのか――そこは語られません。しかしいじめっ子から逃れるために金持ちになるならば、それもまた「ラットレースから逃れる」というレースの一部なのではないでしょうか? 金持ち父さんもまた、「ラットレース」に巻き込まれることの恐怖に駆動されているのではないのでしょうか?

そうすると、「金持ち父さん」と「貧乏父さん」はどれほど違うのでしょう。単に余裕のあるラットと無いラットの違い(まあそれだって大きな違いかもしれませんが)なのでしょうか? そもそも「金持ち」とはどこからが「金持ち」なのか?――こんなくだりもあります。

「あまったお金を資産につぎ込むこの再投資のプロセスが軌道に乗れば、私は金持ちになるためのベルトコンベアーに乗ったも同然だ。ただし実際には金持ちの定義は他人がするものだ。本人にしてみれば、いくらお金があっても『ありすぎる』と思うことは決してない」(p.119)

それでは、人は結局、(主観的には)「金持ち父さん」になれることはないのでは? どれだけ金があっても足りたと感じることはなく、いじめっ子にこづき回されないために頑張り続けるのであるなら、「ラットレース」の円環から解脱した「金持ち父さん」像には遠く、つまり「金持ち父さん」とは、人が結局なり得ない遠い理想像の人格化なのではないか……?


 
【感想6:金の話はただの金の話ではない】

金持ち父さんたちがどうしてそんなに金持ちになりたいのか……と考えていくと、上述のようになんだかぐるぐるとしたところへ迷いこんでしまいます。そして時に、著者の論はひどく素朴な精神論になります。たとえば、「ファイナンシャル・インテリジェンス」を高める目的として、

「チャンスを自ら作り出すような人間になりたいからだ。何が起ころうとそれをつかんでチャンスに変えていく。そういう人間になりたいからだ」(p.158)

と妙に抽象的(かつありきたり)な言い方をし始めたり。

昔、大学でマルチ団体に「生きる意味を考えたことがありますか?」と突然尋ねられたことがありました(私はよくそういう勧誘に遭うタイプなのです)。そのときは、「単なる金儲け団体のくせに何が生きる意味じゃ」とか思ったのでしたが、金銭を求める意義を追求していくと、最終的には現世的快楽を超えて宗教的思弁に至ってしまうのかもしれません。だからこそ、金の本が「自己啓発本」たりえるのでしょう。


感想1で述べたように、金の話はいつも、即物的であるようであってもどうしても、倫理や道徳、思想や信仰と結びついてしまいます。そもそも宗教的倫理が資本主義の成立に寄与したという説もありますものね。
本書では、金持ちになりたい目的はよく分からんと書きましたが、金持ちになりたいという欲望に、幼い頃の呪縛が対置されている点は面白く思いました。
著者は、金持ちになりたいと考え始めたとき、幼い頃から聞かされた親の言葉や「罪の意識を芽生えさせるさまざまな呪文」(p.225)と闘わねばならなかったと言います。呪文とは、「自分のことばかり考えるのはやめなさい」「ほかの人のことも少しは考えなさい」という旧い道徳です。つまり彼にとって、金持ちを目指すことは、単に金を儲けることではなく、旧い倫理道徳、旧い超自我、旧い罪悪感との闘争であったのです。本書の、実父である「貧乏父さん」のもとから別の父のもとへ、という設定はこれを端的に表していますし、読者のエディプス・コンプレクス的なものをくすぐる上手い設定でもありますね。
そして、そのように、旧い権威との闘争が富や経済的成功という形をとるのはよく見られる風景であるのでしょうし、現代のホリエモンのようなスターもそうした像として支持されているように思います。

 

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●その2:『チーズはどこへ消えた?スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳、扶桑社、2000.


これも金持ち父さんと同じ頃のベストセラーでした。派生本やパロディ本もたくさん出ていましたよね。
物語仕立てなので、ちょっとは面白く読めるんじゃないかな……? と読み始めましたが、読み物としてはぜんぜん面白くなくてびっくりしました。なぜ売れたのか??

ストーリー(というほどのストーリー性はないけれど…)は、「チーズがずっとあったところからなくなってしまった!」というだけです。その状況に、登場人物たち(ネズミとこびと)がそれぞれどう対処するか、って話で、「状況の変化を受け容れて変わっていかなきゃならないよ」という教訓話になっています。 
そして、変化にあたって重要なのは「恐怖」にとらわれないこと、という主張は『金持ち父さん』同様です。2000年といえば日本でも「リストラ」が流行語になって久しい頃であったはずなので、そんな背景もありこうした寓話が共感を生んだのでしょうか。
そして恐怖にとらわれる者、変化を受け容れない者たちは、「われわれには権利がある」(p.32)と権利を主張してチーズが消えた真相を解明しようとします。権利を主張する者を愚か者として書く点もそうですし、他の教えもだいたい『金持ち父さん』と同様です。「物事を複雑にしすぎない」というシンプルさの重視、「最大の障害は自分自身の中にある。自分が変わらなければ好転しない」(p.65)という自己責任論……。


こんなに変化や変化や言われたら、いや、もういいっす、適応しないまま絶滅しますわ、逆立ちしても変わらない、滅びる覚悟はできてるのさ、ああ僕はストレンジ・カメレオン、と歌いたくなってしまいますね。巻末ではこの寓話を読んだ感想を人々が語り合うという設定になっており、「私たちも変わらなきゃね」的な会話が繰り広げられるのですが、そこで語られる変化とは結局、ビジネスの効率化や、転職や、変化についていけない社員をリストラすることなのです。

 

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●その3:『嫌われる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社、2013. 

上の二冊とはちょっと毛色の違う自己啓発本です。上の二冊は経済系・ビジネス系自己啓発本ですが、ご存知アドラー精神分析の流れにある人であり、自分の関心分野に近いのでこの本は気になっていたのでした。

アドラーはほぼ知らんので、ちょうどいいのでこの機会に勉強がてら、と手にとったのでしたが、教科書的なアドラー入門のようなものかと勝手に思っていたら出典等はついておらず、予想したのとちょっと違いました。本書は、岸見先生への聞き書きという形で書かれており、古賀氏によるあとがきでは、

「わたしが求めていたのは、単なる『アドラー心理学』ではなく、岸見一郎というひとりの哲学者のフィルターを通して浮かび上がってくる、いわば『岸見アドラー学』」(p.288)

とあります。河合隼雄を通したユング、みたいな関係でしょうか。更にその聞き書きという形になっているので、どこまでがオリジナルアドラーの紹介なのかはちょっと分かりにくいです。

 


さて本書は、「青年」と「哲人」の対話という形式で進みます。悩める「青年」の問いかけや憤りを、「哲人」が受け止めアドラーの思想を説いてゆきます。
フロイト的な原因論を、アドラー的な目的論に対置して否定する前半の主張は明快です。
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します」(p.29)
だが、ここでフロイト原因論とされているものは別にフロイト的ではないのでは? ててのはひっかかる点です。リストカット不登校を「親がこんな育て方をしたから子どもがこんなふうに育った」というのは、フロイト理論の説明としてはだいぶ単純化しすぎでは。またアドラーの目的論として挙げられている考え方は、フロイトの疾病利得の考え方とほぼ同じです。しかし、仮想敵を想定して二項対立で進められる議論は、シンプルで訴求力があるのでしょう。

 

フロイト理論がニヒリズムの入口とされる一方で、アドラー心理学は「ニヒリズムの対極にある」(p.37)思想です。それが「感情に支配されず、過去に支配されない」と説明されている点は、『金持ち父さん』にもあった「感情」の忌避を思い出させます。なんでわれわれはこんなに「感情」を嫌うのでしょうか……。他にも『金持ち父さん』に通じるところはいくつかあります。たとえば、「人生の荷物を軽くする、人生をシンプルなものにする」(p.146)というシンプルさの重視、また、「目的論」が自己責任論的傾向に帰着してしまう点です。

 

「裕福で優しい両親のもとに生まれる人間もいれば、貧しくて底意地の悪い両親のもとに生まれる人間もいる。それが世の中ってものだからですよ。さらに、こんな話はしたくありませんが、この世界は平等ではなく、人種や国籍、民族の違いだって、いまだ歴然と横たわっているはずです」(p.45)


と「青年」は言います(なんでここで青年にわざわざ「こんな話はしたくありませんが」と言わせたんやろ、じゃんじゃんすればよいと思うんですが……)。

今回、自己啓発本を三冊読んで、「生まれながらの格差」という事実をどう処理するかは各自己啓発本の見どころ(見せどころ)やな、と感じました。人間には、生まれ育った条件や環境に不平等がある、というのは事実です。この事実は、とにかく「自己」に焦点を当てる「自己啓発」というジャンルとは相性の悪いものでしょう。『金持ち父さん』では、あまりそこには触れられていませんでした。資産が重要であるとするなら、スタート地点の元手にそもそも差があるという想定があって然るべきだと思うんですが、そこには特に言及がありませんでした。

本書では、上の「青年」の問いに対し、「哲人」は、「いまのあなたが不幸なのは自らの手で『不幸であること』を選んだから」(p.45)「ライフスタイルは自ら選び取るもの」(p.49)と答えます。そしてそこから「変わる」勇気が必要であるという主題は、『金持ち父さん』『チーズ』と共通ですね。しかし、「哲人」の答えは、「青年」が提起する人種や民族というでかい問題の答えにはなっていないようで、どうもモヤッとします。というか、意図的に、個人の意志で変えられることの話とそうではない大きな話が混同されているように思います。この変えられるもの/変えられないものというテーマ自体は、本書のうちでも、「他者の課題」という概念で扱われていますし、その際「二ーバーの祈り」が引用されてもいます。(権内/権外という概念――哲劇のエピクテトス本で知りました――とも似ていますね。)アドラー心理学は「自分が変わるための心理学」(p.115)なので、後者(変えられないもの)にはタッチしない、というだけのことかもしれません。が、上の「哲人」の答えは、「青年」が提起したような人種や民族の問題をどう位置付けるのか、何が「変えられるもの」で何がそうではないのか明言していない点で誠実ではないと感じます。

他のくだりでも、「哲人」の話の中では、いろんな問題の社会的背景は無いかのように扱われ(というかそもそも扱われず)、そのためか、挙げられる例はことごとく、保守的な秩序に資する例になってしまっています。

たとえば、「ニートや引きこもり」の例を挙げて目的論が説明される際、「仕事がしたくないのではなく、労働を拒否しているのではなく、ただ『仕事にまつわる対人関係』を避けたいがために、働こうとしない」(p.112)と説明されます。わざわざ「ニートや引きこもり」の例を挙げるなら、労働環境の現状や学校でのいじめ問題や……と様々な背景の可能性に言及がありそうなものですが、そこには触れられません。勿論、物事の原因は、本人の心的問題/社会的背景、という二者択一ではないでしょうし両者が一体となっている場合も多いと思いますが、そもそも後者の要因は存在しないかのように話が進められるのです。あるいは、すべては個人の心に発する、という考え方なのでしょうか? 

父親との関係の悪さを、「殴られたから父との関係が悪い」という原因論で考えるのでなく、「父との関係をよくしたくないから殴られた記憶を持ち出している」という目的論で考える、という例もあります。殴られたことは事実であるわけですが、ここで父の断罪、父がなぜ殴るのか、ということは措いておかれ、「わたしが『目的』を変えてしまえば、それで済む話」(p.167)になります。たしかにシンプルな解決ですが、それでいいのでしょうか? ―― ああ、これ(個人が「心の持ちよう」を変えればそれでいいのか)は、心理的問題の解決とは何か・治療とは何かという問題にまつわる伝統的な問いかもしれませんね。心のもちようさ、ってじゃがたらも歌ってましたね。

 

本書でなんといっても面白かったのは、「青年」と「哲人」のキャラです。対話形式を採ったのはギリシャ哲学に倣っているそうですが、対話にしては、「青年」の反論はいきあたりばったりの印象を受けます。「青年」はたびたびキレるのですが、キレ方になんだか一貫性がなく、単にキレ役として配置されている感があります。
「今日こそはあの風変わりな哲学者を完膚なきまでに論破し、すべてに決着をつけてやる」(p.62)とかいうし、やたら「!」の多い喋り方をするし、「なっ……!」とか言うし。感情的/理性的という二項対立を想定するなら前者を担う役です。一方で「哲人」は、読者がそれに同一化して気持ちよくなれるような役です。「論破」とかが好きな人の自己像ってこの「哲人」みたいな感じなんやろな、と思いながら読みました。「ふふふ、あなたはおもしろいボキャブラリーをお持ちだ。声を荒げる必要はありません、一緒に考えましょう」(p.136)……ネット論客とかでこういうやついるよなあ。 

 

 

***まとめ*** 

 
以上、まず、2000年のベストセラーだが読んでいなかった2冊と、気になっていた1冊を読んでみました。100選炎上のときに、「自己啓発本はどれも内容ペラペラだからすぐ読み終わる」と言うてた人がいましたが、馴れない分野だからかいちいちモヤッとして考え込むからか、めちゃめちゃ時間がかかりました。100冊全部読もうと思ってたけどあと数冊でいいかな……という感じです。次は片付け系啓発本(こんまりとか)を予定しています。

 

ところで、冒頭に書いた、そもそも自己啓発本って?という疑問ですが、以下の論文が大変勉強になりました。


尾崎俊介アメリカにおける「自己啓発本」の系譜
(外国語研究(愛知教育大学外国語外国文学研究会)  49, 67-84, 2016)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005730612


自己啓発本」の系譜を、19世紀後半アメリカでのニューソートに遡り、現代の自己啓発本に見られる「引き寄せ」や、ポジティブ志向や自己責任論的傾向も、その流れの中で説明されています。一方、成功哲学系の系統や、20世紀半ば以降の自己啓発本の多様化(スピリチュアル系や東洋思想の影響)にも触れられており、今日の自己啓発本のレンジの広さのルーツが分かりました。また、自己啓発本がつきつめれば「神本位に生きるか、人間本位に生きるか」という大きな問題に至るという指摘は、『金持ち父さん』の項で触れた、金儲けという即物的な話のようでありながらそれが新旧の価値観の闘いであったことを思い出させます。

*1:註1)「ろくに読んだこともない」と書きましたが、私は小学生のある時期まで、家庭事情によりモラロジー関連の書籍を愛読していたことがあります。あれらも「自己啓発書」のジャンルに近いものでありましょう。(その後、森毅のエッセイにハマったことでそれは終焉しました。これもまた別の形の自己啓発だったかもしれません)

*2:註2:木暮太一『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』(星海社新書、2012)は、実際、『資本論』と『金持ち父さん』の類似に着想を得て書かれた本です。
著者は大学時代にこの2冊を読んで人生が変わったのだそうです。この2冊の共通性とは「資本主義経済のなかでは労働者は豊かになれない」(p.12)という主張であり、だがそこから導かれる結論が、マルクスは「革命・労働者の団結・共産主義経済」であるのに対し、ロバート・キヨサキは「投資・資産・不労所得」である、というまとめは明快です。ちなみに著者の立場は「マイルドな金持ち父さん」って感じでした(要約すると「金持ち父さんみたいに雇用に頼るなとは言わない、しかしマシな雇われ方をしよう、でもそれは結局あなたの気持ち次第」みたいな)。他にもいろいろ感想はあるが割愛します。

*3:註3)余談ですが、この後、この話をしている金持ち父さんの前に「浮浪者」が現れ、お札を恵んでやるとペコペコして去っていくというシーンが挿入されます。本書で最も趣味が悪いと思ったくだりであります。