がんばって「自己啓発本」を読んでみるの巻(2)『人生がときめく片づけの魔法 2』

前回からだいぶ時間が経ちましたが、「自己啓発本」を読んでみるシリーズの続きです。企画といってもひとりで勝手に読んでるだけですが。「とにかく自己啓発本と呼ばれるやつがなんか苦手だ、でも何が苦手なのか、それらは何が書かれているのか」という問いから始まって、これまで避けてきたものをあえて読んでみるこの企画、前回のはこちらでした。

 今回は、


近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法 2(改訂版)』河出書房新社、2019.

を読みました。本来なら「1」から読むべきなのですが、なぜ「2」かというと、私のミスです。ともあれこんまりの片づけ本です。「片づけ」は私にとっても日々重くのしかかる課題であります。

 

    

 

前回、「自己啓発本」のルーツを辿る論文を紹介しましたが、現状「自己啓発本」と呼ばれるものはその複数のルーツに応じて広いレンジをもっているようです。本書は、「片づけ」という具体的な行為についてのハウツー本でありながら、

「片づけ」をすると、小さな自信が生まれます。

自分の未来が信頼できるようになります。

いろんなことがうまくまわるようになります。

会う人が変わります。(……後略)(p.249)

 

というように、「片づけ」を通した自己の変革を目標においているからには、これもまた「自己啓発本」に含めてもよいのでしょう。

こんまりについてはいくつかのことは知ってはいました。TVにも度々出演していること、日本だけでなくアメリカでもムーブメントを起こし「KONDO」が「片づける」という意味で使われているほどであるということ、「ときめかないものは捨てる」を片づけの基準としていること、など。しかし著作を読むのは初めて。これまでSNSで断片的に流れてくる情報からなんとなく反感を抱いておりました。たとえば「本は●冊だけ残して捨てましょう」、いや、ムリでしょ、「ときめかない服は全部捨てましょう」、いや、仕事着なくなってまうわ、など。私のような古いもの好きで蒐集気質の者には相容れぬ、断捨離の教祖のような人物であろうと想像していたのでした。が、実際読んでみるとちょっと予想と違いました。以下、感想であります。

 

 

■ 本全体の印象

まず本全体の感想としては、意外に面白い!

えらそうな片づけ指南本かと思っていましたが、その語り口は柔らかく、時に自らの失敗談やユーモラスな比喩(散らかって荒れたドレッサーを「ドレッサーというより廃校舎」とか思わず笑ってしもた)を交えた語りは厭味がありません。また、端々から「この人、ほんまに片づけが好きなんやなあ」というのが溢れており、さかなクンが魚の話をしているのを聴いているときのような感があります。

こんまりメソッドは「とにかく捨てる」というものらしいから自分にはムリだろう、と予想していたのでしたが、具体的なアドバイスの中には実際に役立ちそうなものもありました。「ときめくけれど外に着ていけない服は部屋着にする」とか、「ときめくけれど役に立たないストラップなどの飾りはハンガーにひっかければいい」とか。実際にハンガーにひっかけるかどうかは別にして、読んでみると意外に「とにかく捨てよう」とは言っていないんですね。

 

 

■「ときめき」とは?

では、そもそもこんまりのキーワード「ときめき」とは何なのでしょう?

新しいものやキレイなものに感じるそれを「ときめき」と呼ぶのかと思っていましたが、実際読んでみると、「ときめき」対象は意外と幅広く想定されており、ものに感じる安心感や役に立ってくれているという思いも「ときめき」に含まれるのだそうです。「モノの魅力」を、「先天的魅力」「後天的魅力」「経験値」に分類している(p.62)のはナルホドと思いました(後者2つの違いはよく分かりませんが…)。いずれも個々人が主観的に感じるものです。

しかしここで面白いのは、「ときめき」は個々人の主観であるはずなのですが、必ずしも最初から正確に「ときめき」の有無を判断できるわけでないという点です。「ときめき判断の速さは経験値の差」(p.25)であり、時間をかけて「自分のときめき感覚に向き合う」ことで磨いてゆくものなのです。「ときめき判断がしやすくなる」方法として、「心臓に近いアイテムから選ぶ」「触るだけでなくギュッと抱きしめてみる」というコツが挙げられたり(p.23)、「ひとつひとつ手にとってときめきチェックをする」ことで「ときめく感度」を高めることが推奨されたりします(p.55)。

何が自分にとってときめくのか、ときめかないのかという判断力が身につくことこそ、片づけの最大の効用です。(p.55)

「ときめき」の判断は「片づけ」という目的のための手段のはずですが、この一文では手段と目的が転倒しているように見えます。「ときめき」判断力を身に付けることのほうが「片づけ」の目的であるような書き方です。実際、本書における「片づけ」は、自分に向き合うための修行かセラピーのようなところがあります。たとえば次のようなエピソードは、或る種の心理療法を思わせます。

ひとつは、「仕事用の服にときめかない」という人の例。この人たちは突き詰めて考えていくと仕事自体にときめいていないのだという気づきに至りました。「ときめかないと感じているということ自体が自分の声なき声」(p.33)であったのです。モノへのひっかかりを媒介として自分の内界への洞察に至ったというわけです。あるいは、好みじゃないはずなのに「なんとなく、ときめく感じ」を覚えた食器が、実はお祖母さんがお祖父さんにプレゼントされたものであったことが分かったという例(p.64)。この人の「ときめき」の感覚は、本人が知っている以上のことを知っていたというわけです。精神分析家が「無意識に偶然はない」と言うように、「ときめきはけっしてウソをつかない」(p.132)のです。

 


■ 直観パラダイス

「ときめき感覚」以外にも、とにかく本書はそのほとんどが「感覚」の話で進められます。

たとえば、適切な持ち物の量。「片づけを進めていくと、自分にとって心地よい持ちモノの量に気づく瞬間が訪れます」(p.91)。こんまりはこれを「適正量のカチッとポイント」と呼びます。この気づきが起こると自分が満たされる量が分かって納得が生じるのですが、その気づきはあくまでも「カチッ」という直観的な感覚のようです。

また、本書では、物を素材別に収納することが推奨されるのですが、その際こんまりは、「物は素材によって出している空気感が違います」(p.89)と述べています。(「空気感」って新語だと思いますがそういえばいつ頃からいうようになったんやろ……? もともとフワッとしたものである「空気」にさらに「感」がつくという、最強にフワッとした言葉だなあ。) そして素材が分からないものにつては「においを嗅ぐ」、嗅覚という感覚に頼るわけです。そうすると、通帳やカードや印鑑などは「密度が濃いめの金属っぽい香りが漂っている気がします」(p.150)、そうなのか……? 

これらは陰陽五行によって根拠づけられたりもしますが、基本的に「気がします」という主観の世界です。他にも、「布っぽいものは、バラバラにほぐされてつねに間にスース―空気が通っている状態だと、なんとなく生地がかたく冷えた感じになってくる」(p.94)ので肌着を小分けにする収納器具はよくない、とか、こうした感覚依拠は枚挙にいとまがありません。

 

 

■ 格言が次々飛び出す

こうした主観と感覚を突き詰めた結果、格言のような面白フレーズが頻出するのも本書の読みどころです。たとえば、「トイレにカレンダーやら本やらがあるのは良くない」という話のくだりでは、

そもそもトイレは排出する場所です。100パーセントアウトプットする場なので、不要な文字情報などインプットするモノは、よっぽどときめくモノでないかぎり、ないほうがいい気がします。(p.179)

「気がします」という文末表現に反して、すごい説得力です。「たしかにそうか……」という気がしてしまいます。

また、本書は衣類の「たたみ方」指南にかなり頁が割かれていますが、そこでのこの文には思わず笑ってしまいました。

 

ここで、不思議な形の洋服をたたむときの一番の極意をお伝えします。ひるまないことです。(略)そもそも、洋服はもともと四角い布を組み合わせてできているものです。どんなモノであれ、四角くたためないはずがないのです。(p.99)

 

最近よくある変わった形の服のたたみ方についてのアドバイスなのですが、『聖闘士星矢』の「いかに強固な物質でもそのもとは原子!」を思い出してしまいました(※絶対壊せない塔かなんかをこの理屈で粉砕する)。私は、作者が、一歩間違えば奇怪になってしまうマイ理論で強引に自分の小宇宙(コスモとかけてるわけじゃないよ)を作っていく、みたいな創作物が好きなんですが(例:『少年愛の美学』、淡路島ナゾのパラダイス)、こんまりにもごく微弱ながらその傾向を感じました。

 

 

アニミズムと呪物崇拝的儀式

ともあれ、そのように主観的直観で以て「モノ」の処遇を判断していくわけですが、その過程で、モノを擬人化するような表現が見られます。

たとえば、捨てるか迷っているものをいったん分けておく方法について、「モノからしてみれば」(p.60)ときめかないと言われたうえに他の仲間と隔離されることになる、とモノの立場から反対していたり。衣服は畳む収納がよいか掛ける収納がよいかという話では、「かかっているほうが、うれしそうな感じのするモノだけかける」(p.110)とモノの感情(?)を判断根拠にしていたり。製菓グッズを口を縛った袋に入れてはいけないという話(細かい!このアドバイスの細かさも本書の特徴です)では、「モノが呼吸困難で弱るのか、収納したそばから存在感がフッとなくなる」(p.216)と製菓グッズを生き物扱いしていたり。こうした箇所は抜き出していると限りがありません。

 

こうしたモノ観はアニミズム的ともいえましょう。実際、調べてみたところ、こんまりをアニミズムの視点から論じた論は既にあるようです。未読ですが、文化人類学者である奥野克巳さんの『モノも石も死者も生きている』(亜紀書房)という本は最初の章でこんまりを論じているらしく面白そうです。

 

こうしたアニミズム的感覚は、特定のモノに対する呪物崇拝的扱いへつながっています。

たとえばブラジャー。こんまりはブラジャーを「おブラ様」と呼んで「VIP待遇」にします。他の洋服と較べて「出している空気感と持っているプライドが別格」(p.123)であるからだそうです。おブラ様は、ブラスチックのケースなどでなく木やラタンの引き出しで他のものとは別に収納することが推奨されており、これは「『おブラ様』専用のおうち」と表現されています(p.128)。ブラジャーの扱い方を変えると他のモノの扱い方も丁寧になっていくそうです。


他にVIP扱いされるものとしては財布がありますが、こんまり自身の、帰宅後の財布の収納の仕方がすごい。

まず外ポケットに入っているレシートを取り出し、白地のコットンシルクにピンクと黄色の丸い花柄模様のハンカチを広げた上にお財布を置きます。『今日も一日お疲れさまでございました』と声をかけつつ、プレゼントを包むようにお財布をくるんでいき、その途中に親戚からもらった小さな水晶もいっしょに巻き込みます。そして、包み終わったお財布を専用の箱に入れ、フタをし、引き出しの一角に収納したら、『おやすみなさいませ』とあいさつをして完了です。(p.153)

 

ちょっとした儀式(というか儀式そのもの)です。ただ、モノに対する扱いとして過剰に思える一方で、その対象がブラジャーと財布というのは、一般的通念に照らしてもすんなり理解できるものです。一般的にも「女性は下着はきちんとしてないと」とか「財布はいいもの使え」とか言われるように、女性性に関する領域や金銭に関する領域は、呪術的思考と結びつきやすいところでありましょう。先に、「自分の小宇宙を作っている感じ」と言いましたが、本書の場合、けっしてそこまでぶっとんだ小宇宙を作っているわけではないのです。いわゆる「スピリチュアル」的なものがうっすら好き、そこまでガチじゃないけど、みたいな層の読者にウケるんかな?と思いました。

 

■ うっすら「日本スゴイ」風味

本書にはしばしば「日本の伝統」についての記述があります。それは別に本書の主題というわけではありませんが、上述のようなうっすら「スピリチュアル」ぽい記述と融合しつつ、本書の雰囲気を支えています。たとえば、衣類を「たたむ」話について、人のてのひらから暖かなハンドパワーが出ているという話は、折り紙という「日本の伝統文化」の話と接続されています(p.101)。

また、「日本人が天から与えられた収納の才能が、まさに押し入れという空間の使い方に結実している」(p.139)とか、「四季の移ろいを愉しみながら、小さな違いにどこまでもこだわれる、私たち日本人のDNAに刻まれたこの特質は、次の世代の日本人にもぜひ引き継いでいきたい、本当に大切な宝物です」(p.227)とかいうくだりは、明確に政治的に「愛国」的というわけではありませんが、うっすら「日本スゴイ」風味であって、テレビの「日本スゴイ」番組がなんとなく好きな層とか「日本人はやっぱり○○だよね!」「~できるのは日本人だけの特性だよね!」みたいな話をコミュニケーションツールとして盛り上がれる層にウケるであろうな~と思いました。

 

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■ まとめ

(1)意外に自分に合っていた

こんまり、絶対に自分には合わんと思っていたのですが、読んでみると意外に面白かったです。前回、『金持ち父さん』などのビジネス系自己啓発は読むのが苦痛でしょうがなかったですが、こうしたスピリチュアル系自己啓発には自分は親和性があるのかもしれません。

正確には「スピリチュアル」という語を用いるのが適切か分かりませんので、「スピリチュアル」的だと感じた内実をもう少し分解して書くと、以上で述べてきた(A)特にエビデンスとかなく直観で話が進んでゆく点 (B)心の深層やその変化が重視される点 (C) とはいえ「日本スゴイ」的な通俗性とも親和性がある点 をここでは便宜的に「スピリチュアル」的と呼びました。このうち(C)は自分の苦手とするところなのですが、(A)はむしろ自分のようなものには親しみやすい要素であり、(B)は自分が親しんできた心理療法精神分析の言説とも共通性があるなと感じました。

さらに、意外でもあり「いいな」とも感じたのは、一種のゆるさです。最初に述べたように、読む前の情報からは「とにかく断捨離せよ!」みたいな本だと思っていたのですがそうではなく、最初に挙げたストラップの飾り方のように、「役に立たないものだがどうしても捨てられない場合はこうすればいい」「こうするのが理想的だが無理な場合はこうしてもいい」みたいな、ケース・バイ・ケースですよ的記述が多いのですよね。「片づけ」周りは強迫性に満ちており(「ためこみ」が強迫の一種であるなら、「片づけ」はその治療として位置づけられるはずですが、一方で「片づけ」もまた「ためこみ」と裏表の強迫性を帯びているのでしょう)、こんまり自身も高校の時「片づけノイローゼで倒れた」(!)というエピソードをあとがきで書いていますが、本書はそうした強迫性との付き合い方の書、妥協点探しの書、として読めるのでないかなと思いました。おブラ様収納や財布儀式はそれ自体強迫的である印象も受けますが、軽い強迫を以て重い強迫を制するのがこんまり流片づけなのかな、と感じた次第です。

 

(2)前回読んだ本たちとこんまり

前回読んだ『金持ち父さん、貧乏父さん』などでは、前回の記事に書いた通り、「感情」というものが蔑視されていたのが印象的でした。それは、人を誤った方向へ導くものとされていました。一方で、今回読んだこの本では、すべてが感覚と直観によって導かれてゆきます。これらは一見対照的に見えますが、ふしぎと、前回読んだ本たちと今回のこんまり本はそう遠くない印象を受けました。

逆に、こんまりとの類似点を以て考え直すと、前回読んだ本たちの論理も、「感情」を忌避するのであるからただ現実に即した話なのかと思いきや、最後は精神の話になるのであったな、ということが思い出されます。『金持ち父さん』において金の話はただ単に金の話ではなく、精神面の向上と結びついていました。「ファイナンシャル・インテリジェンス」を高める目的について金持ち父さんは、「チャンスを作り出す人間になりたいから」と妙に抽象的で精神論的なことを言い出したりするのでした。こんまりが「片づけを通してときめき感覚を磨く」ように、金持ち父さんにおいては「資産運用を通して自己を向上させる」のでした。

 

このへんの感じ(「感情」とかの主観的なものを蔑視するような論理が逆に(?)精神論ぽくなったりする感じ)ってなんやろな~ 上手く言えへんな~ と思うていたところ、先日SNSで(も)氏が、「エビデンス主義」と「根拠のない精神論としての自己啓発」の近しさ・相性の良さについて呟いていて、アッそれだ~と少し言語化された感じがしました。(も)氏は、IT起業系の人が禅とかマインドフルネスとかを好む傾向に通じる話かも、とも言っており、ナルホドと思いました。そういえばマインドフルネス流行もよく分かってなくて気になっていたので次回はマインドフルネス本を読もうかと思います。なんかいろいろ上手いこと言えないまま今日はここで完。