読書の冬(3)かまど&みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』

■ かまど&みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』(大和書房、2024)

去年のベストセラー。わたくしも読みました。ウェブ記事の頃から好きだったんで紹介します!

 

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 「みくのしん」は、ウェブライターなのに読書が苦手でこれまで(文字の)本を読み切ったことがないという人。その彼が、ライター仲間かつ親友でもある「かまど」にサポートされつつ文学作品を読んでゆく様子を収めた読書実況本です。

 本書のもとになったのはオモコロブロスの記事「本を読んだことがない32歳が初めて『走れメロス』を読む日」。本書の一章はこれの再録です。書籍版は、ネットミーム(とオモコロノリ)に明るくない読者でも読めるように編集されていますが、元記事の臨場感とドライヴ感もかなり好きなんでまだの方は是非!

 

本を読んだことがない32歳が初めて「走れメロス」を読む日 | オモコロブロス!

 

 わたくしも三年前バズった際に読みました。めっちゃ面白かったんですが、最初は面白いと感じる自分の心を疑ってみました。自分は大読書家ではないが比較的文学作品に親しんできた人間であり、そういうなんかに馴れてるやつがいわゆる初心者の反応を観て「ほうほう」と言うてるときって「大人が子どもの絵の純粋さを誉める」的な侮りがあるんでないか……と。が、その後に続いてupされた「みくのしんvs芥川」「みくのしんvs賢治」も読み、「違う! この気持ちは侮りやない、この気持ちはっ……リスペクトや!」と確信し、電子書籍「みくのしんvs檸檬」も買い、書籍化と聞いて本書も購入。本書にはメロス含め短編四作を読む様子が収められており、四作中三作の感想ですべて豚バラ肉か豚こま肉が出てきます。そんなんある?

 


■本が読める/読めないとは

 本書の面白いとこはまず「読むとは何か」みたいなことを考えさせてくれるところで、それについてはいろんな人がいろいろ言うてはるので私がなんか言うても……って感じではありますがちょっとだけ。
 本書の最初にみくのしんが「なぜ読めないか」を語るパートがあります。みくのしん氏は漫画や映画は好きらしいので、物語が理解できないわけでなく、文字から映像を思い描くのが苦手らしい。そして読書の中で、たびたび細かな表現にひっかかっては先に進めなくなる。そこで逆にわれわれは「われわれが普段『読める』と思っていることは、ある程度『読まない』(=ひっかかる箇所を読み飛ばす)ことだったのかも」と気づかされる。というのが第一の面白さ。それを言語化してくれるのがナビゲーション役のかまど氏で、みくのしん読書を見るうちに自分がこれまで「読み飛ばしていた」ことに気づき、当初「本が読めないってどゆこと?」と思って読み始めた読者も次第に、「いや読めるってどゆこと?」と考え始める。(ちなみに私も読書の途中で迷子になってしまうのではって不安はかなり分かります。実際途中でその状態になって挫折した本や、一応ページはめくったけれど目が滑って終わっただけの本も沢山。ただ多読傾向の人は濫読の中にそういう体験を埋もれさせているだけなんですよね。)
 そして第二の面白さは、みくのしん流の読み方のユニークさ。彼は、読みながら文章から映像を広げていくような読み方をします。たとえば、「一房の葡萄」の「僕はよく岸に立ってその景色を見渡して」という一行で、

「いま、桟橋のさきっぽに立ってる気分になってるもん。通り過ぎた桟橋のカドッコに海のゴミがたぷたぷ溜まってるのまで見える! でも、そこをあえて見ないように海のほうに目を向けて、キレイな景色を眺めるんだよな~!」(p.107)

と語り出す。多くの人が「こんな豊かな読み方できない!」と感じることでしょう。最近の言い方やと「解像度を上げていく」というんでしょうか。ゴミのたぷたぷとか見えねえよ!

 ウェブ記事が出たときから、「こういう感受性をもった人を本嫌いにしてしまう国語教育とはなんなんだ」という感想はよく見ました。個人的には私は国語教育は或る種権威的に「書かれたものを読む・書かれてないものを読まない」でええんやないかと思いますです(自由な読みをしよう!みたいになると感受性や想像力の優劣を競うこととなり別種の権威性を帯びるため)。といっても人は、書いてないことを読まないことや書いてあることを読むことが本当にできるのやろか? とも思うわけで……。小説って意味以前のイメージを言葉(=必然的に意味を持ったもの)で表さなあかんから、絵とか音楽とかみたいに直接イメージを伝えられへんし上手いこと材料そろえて読者の中で組み立て直してもらわなあかんししんどいわあ、みたいなことを安部公房が書いていましたが(「言葉によって言葉に逆らう」、要約は私による)、そうすると「読めない」のってむしろ必然で、書くとか読むとかいうのは書き手も読み手もかなり無謀なことをしているのであるよなあ……うちらすごいよなあ……。

 

■ 情熱と冷静と情熱

 みくのしん氏が「本が読めない」と言うとき、そこには「共感できない」という意味も込められているようです。本書で一番アツいのは「杜子春」でかまどさんがもらい泣きしてしまうくだりでしょう。登場人物の「声を聴」いたり「顔を見」たりしようとしながら作品を読むみくのしんが、「杜子春」を読んでいるときはずっと「杜子春ってあんまり喋ってない気がする」(p.204)と言い続ける(「文字じゃなくて声が聞きたい」と読書の根幹を覆すことを言っていてすごい)。それが、あのシーンで、

「ここでやっと杜子春の声が聞けるんだ! 初めて心からの声が聞けたよ!」(p.246)
「声の張りが全然違う……!」(p.250)

 と言い出し、かまどさんがもらい泣きしてしまう……。なんかここ、美しすぎて、かつてのつらい読書(※注)の思い出を上書きしてもらったような気持ちでした。(※注:私は「杜子春」とあまりよい出会い方をしなかったのでさっきまでその思い出を長々と書いていたのですがつまらんかったので消しました。) 杜子春の声の張りまで聞こえてるの……!?
 
 しかしそんなふうに登場人物と向き合う一方で、みんなが「?」と思うであろうところはサラッと受け入れているバランスが面白かった。たとえば「走れメロス」の「人の命も問題ではないのだ」(p.98)のとことか、みんなが「は!?」となるとこやと思うんですが、そこは、これを分かろうとするのは野暮、ってんでサラッと流されている。(本書には収録されていませんが)「山月記」の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とか、人々が「うわあああ!」って思うところ(かつおそらくネット受けするところ)も、過剰に共感せず流していました(代わりに李徴の肉球についた砂の話とかしている)。みくのしん読書はその熱さが注目されがちだけれど、クールさとのバランスがいいね、大人やね、って思いました。ここが好きなところかも。

 

 かと思えば本書自体はめちゃ熱い。「一房の葡萄」の読後に「かまど、死なないでね」(p.169)と相方への言葉が出ているのが「!?」すぎました。この作品読んでそんなことになる!? 「『明日からも頑張ろう』言葉の本当の意味で」(p.171)とかいう感想出てくる!? 奥付で読者を誉めてくれる本も、あとがきで太宰治有島武郎芥川龍之介の皆さん」「小学校の給食のおばちゃん」「地球」に謝辞を捧げてる本も初めて見ましたわ。ところで本書で扱われている作家は(雨穴を覗いては)全員自死した作家なんですよね。それを思うとこのあとがきのメッセージもぐっときてしまうな……。

 

■ 友達と音声

 他に本書のええところは、なんというても、自慢の友達をみんなに紹介したい!みたいなかまど氏の思いが溢れているところだと思います(みく氏のことばかり書いてしまっているがこの方のエディターシップ(と友情)無しでは成り立たない本です)。各作品を読むとともに二人のストーリーも展開してゆくのが素敵。最近読書会本が賑わっているようですし、読書バディといえばなんというても哲劇コンビがいるし、本書もそうした系譜に位置づけられるのではないでしょうか。

 読みながら私も相方がほしいよ~~と思いましたが、思えば相方はいないけど、かつてのけんきうしつでの読書会とか現在NPOで時々やってる読書会とかがこれに似てるかもしれない。そしてそこでは、一人で目で読むのでなくて、みんなでわいわい音読することが大事なのだよね。自分は、音声コミュニケーションが苦手で文字コミュニケーションが好き、という明確な自覚があり、読書が好きなのも読書が好きというよりは音声コミュニケーションが嫌いであることの帰結であり、ずっと独立エクリチュール過激派として音読を蔑ろにしてきたのですが、ここ数年、音読の重要さを再認識しつつあります。よく言われることですが、そうよね、物語って、そもそも語りやもんね。音声を使うことで気づくものってあるよな~と、本書を読んでいても思いました。(本書刊行後、さらに本書を著者が音読するという動画が出ていて笑いました。)

 

■ フルーツサンド記事も読もう

 ところで本が苦手とはいえみくのしん氏はウェブライター。文章がいちいち面白いのです。「走れメロス」を読んだ後の感想文では、「表現の引き出しがエグすぎる」って太宰への賛辞の前後に「雨上がりにステンドグラスを太陽が突くみたいなきもちのいいラスト」って比喩と「濁流表現の父」って称号授与があり、誰もが「いや、エグすぎるんはお前やろ!」とつっこみたくなることでしょう。

 ライターになる人って皆読むの大好き人間だと思っていたので当初は「ライターなのに本を読んだことがない!?」と驚いたのでしたが、ウェブライターに必要な技術は文学系の書き手に必要なそれとはまた違うのでしょう。あるいは文筆にもアール・ブリュット的な領域(?)があるのかもしれません。(みくのしん氏のそれはアール・ブリュットではない気がしますが。)(思えば私の妹も本を全然読まないのに文章がめちゃめちゃおもろい、なんかそういう人がいるんでしょう。)

 

 読書シリーズきっかけでみくのしんファンになったんで、読書記事とは関係ない記事も遡って読みまして、とりわけフルーツサンド記事はその後繰り返し読んでおります。一時期は、太宰→フルーツサンド→芥川→フルーツサンド→賢治→フルーツサンド→檸檬→フルーツサンド……みたいな感じで読書記事をフルーツサンドとフルーツサンドでサンドし続けており、アッそういや檸檬もフルーツだし葡萄もフルーツだしメロスもメロンぽいしな……という総じてフルーツな境地に達しています。本は紙の果実(僕は砂の果実)。 

 フルーツサンド記事、文から文への運びにいちいち「そう来るのか!」と目を見張ってしまう。括弧の使い方が好きすぎる(( )の中に( )があるやつ(これ私もよくやるが本記事では最大5括弧重なりがある(括弧って5連で重ねてもいいんだ(いいです))))。記事の中で推敲が始まる点もいい。読書シリーズではみくのしん氏が、太宰や賢治を読みながら「文章ってこんな書き方していいんだ」ということを何度も言っているのですが、まったく同じことを言いたい。かと思えば生クリームについて普通に有用なアドバイスがあるところもよい。何よりもマフィンのことを「砂つきのパン」と呼んでいるのが最高です。マフィンも砂の果実。 

 

■ しんにょう

書き忘れたけど本書で一番好きなところは、しんにょうの底が割れるところです。しんにょうっていいよね。