安岡章太郎の犬エッセイを読んだよ

先日、ふとタイトルに惹かれ、安岡章太郎 『犬をえらばば』(講談社文芸文庫、2013) をタイトル買いして読みました。
安岡章太郎といえば、「海辺の光景」くらいしか知らなかったのですが、惹句にもある通り、エッセイの名手でもあることが分かりました。





本作は、犬エッセイの形をとりつつ、文壇の交遊録にもなっており、周囲の作家たちに犬を勧めて飼わせまくる近藤啓太郎(筆者の紀州犬・コンタももともと彼に世話されたものです)、自分のコリーに自分の子を食われかけた坂口安吾、筆者と同じ「落第生的運命」を背負う遠藤周作、驚異的色好み吉行淳之介、なぜか酒場で吃りながら絡んでくる大江健三郎……といった文士たちの群像が犬を通じていきいきと描かれるのですが(大江のは犬関係なかった)、文学好きの人でなくても犬好きの人であれば、愉快に読めると思われます。私も、やはり終始圧倒されたのはその犬描写であります。
読み始めてまずやられたのは、ダックスフンドについての、


ダックスフントというのは、土管みたいな胴体に、水掻きみたいな短い脚がくっついて、全体にヌラヌラした感じで無気味であるが、一ぴきの野性の犬があんなに人工的な姿態につくられるまでには、よほどの長い歳月を要したはずである。(11頁)


というなっかなかにひどい描写です。
さらに、


エジプト人はきっと毎日、朝となく晩となく、一ぴきの犬を塩水につけたり、油をすりこんだり、餌にナメクジを食べさせたりして、あんな犬ともオットセイともつかぬ動物をこしらえ上げたわけだが(…)


と続くのを読んで、スッカリ、この人の犬描写のトリコになってしまったのでした。
(ダックスについては、後に、自分の紀州犬と隣のダックスが交尾してしまったら、と心配するくだりでも、「もし何かの間違いでそういうことになったとして、まるで土管に手脚をはやしたような、ワニと犬との混血種のような”紀州フント”が大きな図体でノソノソと何疋も這いまわったりする事態が生じたら」(192頁) と恐れているので、よほど筆者にとって不気味だったのでありましょう……。)



その他、ユーモラスな筆致で描かれる犬描写、「犬と飼い主は似る」論への検討と異論、「犬も文学も現世の愉しみのものではない」という至言、などなど読みどころはたくさんありますが、最も印象に残った章は、最終章「交尾」です。
ここで安岡は、散歩中に猫を襲った愛犬コンタに見た、野性の一種不気味さを、臨場感をもって描き出していますが、それは今日多くの犬飼いが、己の愛犬に直視しないようにしている犬の一面かもしれません。
当時(オリジナル版の刊行は1974年)と今ではペット事情もずいぶん変わっている、ということはありましょうが、昨今SNSでシェアされる犬美談などは、犬を擬人化して愛でるところが大きいように思います(犬の主人に対する忠誠エピソードなど)。「犬は家族です」なぞという言い方も、その仲間でありましょう。が、安岡は冷徹に、愛犬の中に「われわれ人間の踏みこめない"犬"の心を感じた」エピソードを記述し、あの、愛犬の中に野性の残酷さを見てしまったときの犬飼いたちの戸惑いや気まずさや覚悟を想起させるのです。

しかしそれと同時に安岡は、犬たちの感情豊かさについても書いています。犬に、そんな野性を発露してしまった自分への自己嫌悪があること、自分が嫌われたと思うとその反応が如実に現れること、など。 読みながら、こうした二面性――まあ人間が勝手に二面性と思っているだけなのだが――をもつ犬という動物が、ますます可愛く、愛しく思われました。
別の犬の話を愉しげにしていた筆者を前に、コンタが恨みっぽくしおたれてしまったというエピソードなどは、犬飼いであれば、自分の愛犬のあれこれの表情が浮かぶことでありましょう。自分の主人がよその犬の話をすることが、「コンタには堪らなく悲しく、不安でもあったに違いない」 と筆者は言い、すべての犬は不安なものであるとしています。
私は、このエピソードを読んで、まめ子もやはり人間の話を解しているとはっきり思った瞬間を二つ、思い出しました。
一度は、家族で、父の友人の愛犬が逝ってしまったという話をしていたときです。横にいたまめ子の様子が、みるみる落ち込んでいったのでした。あれは、われわれの話から、自分と同じ種のものの命が消えたことを知って、淋しく、不安になったのに違いないと思います。もう一度は、最後に病院につれていったとき、もうかなり病状が悪いことを宣告されたときでした。まめ子も言われたことが分かって、しょんぼりしているように見えました。あのときウソでももっと、「まめ、大丈夫やからな」と声をかけてやればよかったのかなア、と、後悔というほどでもないのですが、ときどき思ったりします。