完璧な一日


まめ子を最後に獣医さんのところへ連れていったとき、「ただの一時的な不調よね、次の春も一緒に迎えられるよね」と思っていたのですが、ふしぎなことに、その思いとは裏腹に脳裏では、これまでの楽しいおさんぽの思い出が走馬燈のように繰り広げられていたのを覚えています。
その後、病院で余命宣告をされることになったわけですが、意識上では大丈夫と思っていても意識下ではもう解っていたのだな、と思います。
なんともいえない体験でした。


さて、愛犬まめ子があの世に移籍して、ふた月を過ぎました。
「あんな可愛いものが我が家にいないなんて信じられない」というフェイズから「あんな可愛いものが我が家にいたなんて信じられない」というフェイズに移行し、その移行が意外に早かったことが、淋しくもあるようなないような、という感じです。
しかし、なんとなく、一番淋しいのはこれからの季節であろうな、という気がしています。これからというのは冬から春へ移る季節です。
この10年、春を迎えるたびに、「犬と一緒に春を迎えられた!」という喜びを感じてきましたし、お花が咲くと、まめ子と一緒に観に行っていたからです。(まあ、まめ子は別に花になど興味はなく、人間が勝手に犬を連れて花を見てるだけですが。) とりわけ、3年前の冬にまめ子が倒れ、その冬が明けて一緒に公園のお花を見たときは、「またまめ子のお花(※と勝手に呼んでいた)が咲いたよ!」ととても嬉しかったものです。今年の春は、お花は咲いてもまめ子がいないので、どうしてもちょっと泣いてしまいそうです。
でもその春の犬思いが過ぎたらば、少しずつ現世の対象にもリビドーを向けていけるとよいなあ。。などと思うております。


ちょっと気が早いですが、春犬写真を少しupしますね。


「まめ子のお花」のふもとで落とし物のようになる犬


桜の下で、やはり落とし物のようになっている犬





上で、気持ちの移行が意外と早かったと書きましたが、と同時に、その愛情の強度や質のようなものに一切変化が見られないことにも、驚いております。
死んだ対象も生きている対象と同じように思うことができるのだということは、犬を亡くして、初めて知ったことです。いなくなっても犬は、変わらず、同じように可愛いし、愛犬です。

「もう犬は飼わない?」と訊かれることがありますが、ふしぎと、「死んだら悲しいからもう飼いたくない」という思いはありません。これは、まめ子が比較的安らかに逝ってくれたから、ということもあるのでしょう。苦しむ姿を見ていれば、また違ったとは思います。
が、「また飼う?」と言われればそれはそれで、どうかなあ、というところです。まめ子は、様々な好条件が重なって引き取ることのできた犬でした(犬恐怖症の妹がまめ子だけは怖がらなかった、等)。家族の時間や体力面でも、次に犬を飼ったとして、まめ子と同じように世話をできる自信はないですし、何より、あれだけのテンションで犬と暮らせることはもうなかなかないのかもしれません。


まめ子が来たとき、それまでぼんやりしていた世界に色がついていくような感覚を覚えました。恋の始まりってあんな感じなのかな、と思います。
その感覚は、犬がいる間じゅう続いていたので、犬がいる間ずっと、恋の始まりのテンションだったのだと思います。
2000年に出たハイロウズのアルバムに、「完璧な一日」という曲があって、うららかな好い日に「それで君がここにいれば 完璧な一日なのに」 とそこにいない人をしっとりと想う歌なのでありますが、私はそれを聴いたとき、あーこの気持ちや!と非常に共感した覚えがあります。
当時私は、良いお天気の日や良い気分の日、それなのに何かひとつピースが足りないような、そのピースをずっと探してて得られないような不全感を抱いていたからでした。
そして犬が我が家にやってきたとき、「探していたピースはこれか!」と感じたのでした。犬がいた間はずっと、完璧な一日でした。
犬が生きてる間われわれはずっと、そんな日々が終わる日を恐れていましたが、このふた月で分かったのは、犬がいなくなっても、その幸福が消えるわけではない、ということです。完璧すぎる10年があり、それがあったという事実がずっとあり続けるんだな、ということです。そのように思える期間が人生に一度でもあったことは、文字通り、有り難いことであると思います。