T君の14歳の青春に聴いた曲が私の34歳の青春の夏に鳴ったよの巻


ピロウズってちゃんと聴いたことなくて、あ、ドラムのしんいちろう氏はピーズのライブで何度か観てるんやけど(ライブ前にパチンコ屋でパチンコしてて遅刻しそうになったとかMCで言ってた)、ピロウズってなんか繊細なおしゃれロックみたいなイメージを勝手にもっておりまして、だがT君が好きなバンドだ、ということは以前から知っていて、そういえばT君が卒業してしまうちょっと前に家に押しかけたとき引越し準備としてピロウズのファンクラブの会報やポスターがダンボールいっぱいに詰め込まれているのを見て、すごいねえ、と言うと、一生の半分を一緒に生きてますから、もう彼らの音楽があるのが自然っていうか、というようなことをT君が珍しく熱く語り、珍しく、というのは当時私はT君に対してクールな人という印象をもっていたからであって(その印象は現在大幅に修正されたわけであるけれど)、その後どのタイミングだったか忘れたけれどT君がピロウズを好きになったのは14歳の頃「ストレンジカメレオン」という曲を聴いたからだ、と知って、そこから音楽、ロックに目覚めていったという話を聞いて、へえ、と思ってYoutubeでその曲を聴いてみたんだけれどそのときはなんでか特に何も感じず、ふうん、と思って、あの卒業の日から更に時が流れてまさかT君が私の姉の夫になるだなんて思いもしなかったんだけれども、ふとなんとなく思い立ってもう一度「ストレンジカメレオン」を聴いてみたらば、なんだか今の私の心の鳩尾的なやはらかいところにキュッとヒットしたとでもいうのか、その夜、涙が流れて止まらなくなって、こうした曲(ってどうした曲だ、うまくいえないのだが)を聴いて泣くというのはちょっと久しぶりのことであったので、どうしたんやろ、と思いながらもっかい聴いて、その日の夜は何度も繰り返してその曲を聴いた。それでなんとなくこの夏はずっと、「ストレンジカメレオン」をぐるぐるとCDと脳内で再生し続けていて、名古屋で大雨に見舞われた日も、雨で濁流のようになった駅から職場までの田舎道をじゃぶじゃぶと歩きながら、汚れた川を汚れた僕と泳ぐ、と口ずさみながら、ああT君の14歳のときに衝撃を与えたという曲が、私の34歳の夏にこうやって鳴るというのはふしぎなものだなあ、となんだか感慨を感じたのでありました。汚れた川を汚れた僕と泳ぐ、君はとても、綺麗だった。



私も14歳のときに聴いていたら、どうだったであろう、と想像する。そもそも駅から職場までの道、なんて無かったな。だるい通学路の歩道橋や横断歩道で脳内再生したのでしょう。終わらないプレリュード、奏でて生きていく、みたいだね、という詞は、14歳のときに聴いておれば、当時の、気怠さの中での、これから延々と続くのであろう終わらないプレリュードの予期、ずっと死んでるように生きていくんじゃないかという不安と、でもそうはいってもそれはいつか終わって何か本番の人生のようなものが始まるんだろうという漠然とした希望的観測に、ぴったりと響きあったのでありましょう。ずっと楽屋にいるみたいに感じてる、と『失われた時をもとめて』にあったけれども、たしかにそんなふうにずっと感じてた(theジュブナイルの常として)。然し、終わらないプレリュードも既に半ばを終えたはずの今の年齢で聴いてきこえたこの響き方が、14歳に聴いたとき(それは私の思い出ではないのだけれど)のその響き方とそう異なるとは思えなくてそれはたぶん同じであって、その普遍がとても不思議。音楽というもの一般の不思議かもしれないが。


ここで歌われるようなそんな「君」にはなれないね、と当時ならば思いながら聴いたかもしれないし、あるいはいつか現れてくれる「君」を夢見ながら聴いたかもしれないし、でも、既に複数の「君」を既遂し未遂した今に聴くのと、キュッとしたその感じは同じだっただろう。そもそもそれは、イマジナリー・コンパニオンみたようなものであるからして、「君」なんて初めから存在しないのであって、存在しないものに対するキュッであるから普遍なのであって、最後まで聴くと、ああイマジナリー・コンパニオンとの訣別の歌だったんだ、と気付く。


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アルバム・ヴァージョンとシングル・ヴァージョンがあるらしく、アルバム・ヴァージョンのほうが曲が長いのかな。短いヴァージョンのほうがさっくりしていて好きなのだけれど、長いヴァージョンのほうは「滅びる覚悟はできてるのさ」のところの詞が好き。あと、最後のほうのドラムがすごくかっこいい。こういう繊細でメロディの綺麗な曲って、久しぶりに聴いたかもしれません。