打ち明け話をしたよの巻


15年だか20年だかはたまた千年かもう忘れたけれども誰にも言わなかったことがひとつあって、そのことは、別にたいしたことではないといえばたいしたことではなく、言わずともなんとなく知っている人もいるかもしれないけれども、自分にとってはそれなりにヘヴィなことであり、また話さないことによって一層ヘヴィなことになってきたのかもしれず、誰にも話してはならないというのがもはや凝り固まった信仰のようになっておったし、これからも誰にも言わないまま墓場に、とかいうとなんか大袈裟なことのようでアレだけれども、まあ墓場にもっていくのであろうと思っていたのであるが、ふと、打ち明け話をしてみた。ここで打ち明け話をすることで、人生のフェイズが変わるのもまた一興か、という気にふとなったのでありました。

果たして、(当然のことながら)私の長年のヘヴィネスに見合わない受け容れられ方でそれは受け容れられて(そりゃそうだ、その私の長年を、長年の中の一晩ひと晩を、誰も共有していないのだもの)、でもそれこそが、話の本質なのだとおもう、ぱろーるの充実なのだとおもう、話すことで、話したことが変質し、話し相手或いは話し相手とのコミュニケーションとディスコミュニケーションとコミュニケーションとしてのディスコミュニケーションを通して一個のゴミ、ゴミのひとつになるということ、その場合、必然的に相手をゴミ箱扱いで扱うのは心苦しいことではあって、あるいはいつかゴミ箱ごと捨てたくなってしまうかもしれぬ危険を伴うことでもあるんだが、ゴミ箱として自分を呈示する技術もあるわけで、ドラに話させたフロイトもそんなふうであったのだろう。思えばそんな感じ、以前にもあった。寝椅子!寝椅子!寝椅子!


胎内で澱のように沈殿し放熱するどろりどろりとした石のような、それから溶け出したものを、少しずつ小出しにして作品、というほどのものはまあ何も作っていないからこれまた大袈裟なのであるが、まあなんか切り売りっていうか、書いたものとかにしてやっていくんや、それがイッツマイライフスタイルや、というように凝り固まってきた、のであるが、それがどう変わるのか、或いは今後もべつに何も変わらないのか。それは汚れではないですよ、とご受容いただきましたことには若干ほろりとしなくもなかったがそれは感傷ではないし、一個打ち明けたところでまだ数々の澱が、澱んでをりますから。