台風クラブばかり聴いているよの巻(ワン・ツー!)

最近、台風クラブというバンドのファースト・アルバムをずっと聴いています。
京都発のスリーピース・バンド、キャッチコピーは「日本語ロックの西日」! この時点で既に好き!
先日は大阪市立大での学祭ライブへ、久方ぶりで「気になったバンドを一人で観に行く」ということをして、帰りに知らん人と感想を語らうなどして胸熱でした。ライブ終わりに学生さんらが、聴いたばっかのフレーズを口ずさみ、口々に 「最高や〜」「これがロックンロールや〜!」 と言うてる光景も熱かったっす。

人は十代のときに聴いた音楽を生涯聴き続けるという話がありますがたしかに私もそうで、中学生のときに聴いた音楽で未だに涙しますし、当時その音楽を作った人たちよりはるかに年上になったのに、音楽とはふしぎなもんであります。一方で、そーいやここ数年は新しい音楽、若い人の音楽をぜんぜん知らんなア、歳をとるってこういうことかいな、と思うてたのでしたが、あねが最近のお気に入りとして教えてくれた台風クラブを聴いてみて、これは!!とアルバム買い、久々に、キター!となったのでした。
アルバムタイトルが既に最高やし、ファースト・アルバムの一曲目、元気なスカ調やのにいきなり 「もうすぐこの場所も台無しになるのか♪」 とか歌い出した時点でもう、うおおー!好きなやつや!となりました。





スタンダードなロックンロール調あり、ちょっとおしゃれなダンスっぽい曲もありで、いろんな音楽に影響受けてきた人らなんやろなあ、て感じなのですが、それらが、ずっと昔から聴いていた懐かしい音楽のようでもあり、これまでなかった新しい音楽のようでもあるのが、ふしぎな手触りなのです。
ジャケットや彼らのヴィジュアルもその音楽の印象そのまま。京都の某所で撮られているジャケ写は、モノクロで(たぶん意図的に)レトロ感出してるせいもあってか、テン年代の京都のはずやのに 「あれ? いつの時代のバンドなん?」と思っちゃいました。70年代とかそれくらいの、自分の親が青春時代を過ごした京都の写真を見ているかのよう。子供の頃に、父の持ってたフォークのレコード漁ったことなど思い出させるような感じ。
メンバーは私より若い人たちですが、ライブで観たときも「若者ががんばっとるのう」みたいな気持ちでなく、自分が子供の頃に見上げた「大学生のお兄さん」を見るような気持ちになりました(実年齢はもうちょい上なのだが…)。私は、音楽をやる人は、永遠に、お兄さん・お姉さんを見上げる気持ちで見たいのかもしれません。




彼らに惹かれたのは、京都のバンドであるということもでかいのでしょう。直接に京都っぽいワード(寺の名前や神社の名前や「鴨川」とか「206」とか)が歌詞に出てくるわけでもないのに、曲を聴いて浮かぶのは、お昼の一乗寺や高野イズミヤ付近や出町柳あたりののんびりした裏道、叡電嵐電の線路沿い、南のほうの高架沿いや国道 etc。現在京都から移住してあの街との距離感を測りかね中の私には、彼らの醸す年代不詳の京都の路地にふと紛れ込んだ感じが、懐かしさというのではないけれど、なんや心地よいのです。
その京都感というのは、彼らの曲に漂う、終わりそこねて延長された青春、「永遠の残暑」感のせいなのでしょう。
「永遠の残暑」とは床寝のプロ・さーもんさん(仮)による、彼らの音楽の実に秀逸な形容でありますが、京都(のある一部)って、まさに永遠の残暑、延長された青春を許容するような雰囲気ありますよね。学生の街だからでありましょうが、学生だけでなく、青春終わりそこねてなんかぶらぶらしてる人たちがたくさんいて、でも悲壮感はなくそれなりになんやかんや得意なことやって生活して、ご機嫌に生きている感じ。
もちろんこれってちょっと理想化された京都観であって、それが京都の全てではないし、実は私はそんな学生街ぽさにもあんま馴染めんかった人間なのですが、京都を離れてみるとあの雰囲気はやはり得難いものであったのだと思います。自分も異様に長い学生時代を送ってしまったしなあ(そーいやギター&ヴォーカル石塚さんも大学生8年間やったとか。ビバ留年)。といってやはり、彼らの曲を聴いて自分の青春を思い出す、という感じでもなくて、自分が子どもの頃「青春ってこんな感じかな」と思った青春を見てる感じ、あるいは自分もまだ残暑の中にいる感じ。と、なんかゴチャゴチャ書きましたがまあとにかく良いのです。


『初期の台風クラブ』、全曲いいんですが、私は特にラスト2曲「飛・び・た・い」と「まつりのあと」がメチャ好きであります。シンプルながらおそらく作り込まれた構成の曲たちの中、この2曲はとりわけ1ミリも隙がないのだ。
「飛・び・た・い」はちょいアーバンな気怠い感じで始まったかと思いきや、高鳴りだすBPM、焦燥と倦怠が交互に訪れて、かつて大学帰りに意味なく気持ちが高ぶってチャリ転がして東大路から葛野大路へ今出川から八条通りまた今出川、一号線から二十四号線、意味もなく上ル下ルしたことを思い出すなどし、で、行き着く先はゲロ。間奏でのサイケデリックな演奏はかっこよくて美しくて(ライブで観たときもめちゃかっこよかった……!溜め息出ちゃった)、「ふざけすぎて」でサビが延長されてなかなか終わらない焦らしテクニックも、まさに終わりそこねの青春を体現してるみたいで最高。でも焦らした結果はゲロ。
「まつりのあと」は、歌詞とメロディが完璧すぎるし、これ以上ないほど「アルバムの最後の曲」らしい最後の曲。蛮カラ&脱力ヴォーカルから一転讃美歌みたいなコーラスの後に入るギターが切なくて深夜に一人で無窮の感覚になるあの感じを感じさせ、最後の「明け方になって」からの詞と演奏が美しすぎてピッと背筋が伸びて、その3周り目のAメロで投げ出されたまま、「もうすぐこの場所も台無しになるのか」で始まったアルバムが 「やっとおれは気づく、手遅れだってこと」で閉じるのも、その言葉と裏腹に朝の光のような余韻を残すのも、最高……!
最近はこの2曲について夜な夜なさーもんさん(床寝のプロ)とSNSで語り合うという儀式が執り行われており、そんなん久々ですわ。

ライブもまた見たいな。見た目も含め安定感あるベース、眼光が凄いドラム、最後にギター&ヴォーカルがふらっと裸足で登場しジャンプして始まったときの普遍的わくわく具合は、ロックンロールバンドとして完璧だったなあ。あとドラムの人の手首が凄すぎということは書いておきたい(ライブでは「いなにゃーん!」という歓声が飛んでいました)。



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それにしても、彼らの曲を聴いていると、日頃見る京都の光景も塗り替えられるようでふしぎであります。いつも乗る電車の窓から「処暑」PVの橋が見えるのに気づき、途中下車して写真撮ってきました。




PVの初めでうろうろしてるとこ



橋の下の光景もよし(この写真を撮っててつまずいて転んだ)




橋の上汽車が横切れば…




「おれはちょっと涼しいみたいだ」って歌詞、さりげないけど好きです。
「おれは」て主観なのに、「みたいだ」って揺らいでて、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども」(古今集)みたいじゃないすか!?



処暑ファンおなじみのアングルで撮ってみました。



土手に落ちてたまつりのあと



おまけ: 橋の近くにいた可愛い犬