かまってちゃんをかまってきた/病跡学と血液考

先日、快晴の日曜日、八条口にできたイオンモールKYOTO へゆきました。
駅からイオンまで行列ができてました。
京都市の人口の8割くらいがそこに集結していました。
現政権は傀儡で、事実上日本を支配しているのはイオン朝廷だということがよく分かりました。

ユニクロ幕府で買いものなどした後、ナメちゃんと、ミューズホールに神聖かまってちゃんをみにゆきました。

神聖かまってちゃん というけったいなバンドの名は、今年の冬頃よりちらほら耳にしており、ネット配信で人気を得たとかヴォーカルの奇行がどうとかライブで流血とかいう評判から、ナメちゃんにすすめてみたところ(神聖モテモテ王国と混同して「神聖かまって王国って知ってる?」とすすめた気がする)、知らない間にナメちゃんがすっかりはまっていたのであった。
わたくしといえば、あざとさと魂とを同時に感じるそのパフォーマンス、また、彼らを巡る語りが「2ちゃんねる」「ニート」「ひきこもり」etc...というあまりに現代的なキーワードに彩られている点に、当初は、これ、どないやね?と様子見だったのですが、曲を聴くうちにじわじわと気になり始めてしまい(そもそもそんなふうに、どないやね?騙りなのか本物か? と混乱すること自体が楽しいわけであり)、「夕方のピアノ」という催涙弾によって、これは今観ておかねば!とおもうに至ったのでありました。





入場の際、ライブハウスの人に「お目当てのバンドは?」とお決まりの質問をされ、「……かまってちゃん」と暗い声で答えたところ、前後の人たちも「……かまってちゃん」と暗い声で答えていました。かまってちゃん、前座なのに。


イベント司会のさわやかなお姉さんの挨拶の後、かまってちゃん登場。生かまってちゃん、音を聴いてまず驚いたのは、予想していたよりはるかに演奏が上手くない! ということでした。
さらに、ステージ上にいる人々のオーラの無さ。まるで友人のライブをふらっと観に来たかのよーな錯覚を覚えました。
客席との掛け合いも彼らのライブの名物らしいのですが、この日は岡山から来たという高校生が暴れており、それをなだめるヴォーカル・の子(←ナカグロの位置ミスでなくて、「の子」が名前)は、もっとエキセントリックな人かと思うてたらちゃんと大人の対応でした。
が、終わってみると感想は、「(行間三行分アキ)ダメだ、どうやら好きみたいだ…」だったのがふしぎ。

ですます調で長い文章を書くのは疲れるなあ、

最初。 計算ドリルを返してください!計算ドリルを返してください! と歌われるのに合わせてふらふらと笑って揺れていたのであったが、だんだん笑ってられなくなりつらくなる。 ひずませた不協音が悲鳴みたいで茫然。
「夕方のピアノ」も聴くことができたのだが、ミューズホール内に、死ねー!死ねー! とボイスチェンジャーで高音エフェクトのかかったヴォーカルが響き、それに唱和して何人かの客も 死ねー!死ねー! と叫んでるのを観て、なんて異様な光景なんだ、ああそーだ、それでこの異様さ、このいびつさだよ、と思い出したのだった。
わたしが好きなのは、いびつなものがあって、そのいびつなものがいびつでないとされてるものを圧倒する瞬間だったのだなあ。
じぶんがぐっとくるんは、ダメなやつとかかっこ悪いやつとかが(ダメなままかっこ悪いままで)かっこよくなる瞬間で、そうしたいびつな瞬間がありえるのだ!というその構造だけで、泣けてしまうのだなあ、ということを、思い出した。上手/下手とか本物/偽物とかどうでもよく、とりあえずその瞬間があればそれでまんぞくなのであり、彼らには、それを感じた。それは、中学生のときに強く知った気持ちであり、ナメちゃんともこの日「うちらって中二病やなあ」とさんざん言い合ったのだが、ふつうに31歳病である。

五曲ほどやったところで前座の持ち時間が終わったが、しつこくステージを去ろうとしないため、強制的に幕を下ろされてかまってちゃんは去っていった。岡山の高校生は「この日のために生きてきたんじゃ!」とか叫んでて、あー、今、中高生でそんな子たちがいっぱいいるんやろなあ、と思うたのでした。


ぺんてる





ミソりが音楽化されたような曲:




バイトでの口上「いらっしゃいませお客様!」を叫ぶ曲(曲名知らない)も、ミソりにそっくりやとおもた。昔テレアポバイトをしてたので、未だに「もしもし!もしもし!失礼いたします家庭教師のイッショ京都と申しますっ一緒にがんばろうって意味のイッショ京都ですううう!」とミソってしまうのです。あ 会社名書いちゃった。



「ちりとり」。ひさしぶりに、「優しい歌が好きで、ああ、あなたにも聞かせたい」的なきもちになった :




かまってちゃん、今後どう育ってゆくのかゆかないのか想像がつかんので、ちょっと注目してみます。


☆★☆★


さて、話変わって。そんな神聖かまってちゃん、どーせあと何年かしたらB跡学会で誰かが取り上げるんかもしれんが――、巷で話題の「夕方のピアノ」ジャケ写を見て、病跡学に対するじぶんの関心のありかたについて、ちょっと気づいたことがありまして、それは、ああわたしが興味あるんは「創造と病理」そのものよりも、どうやら、「病理と商品化」あるいは「病理の商品化」ということなんやなあ、ということです。
そしてまた、「病理と自己愛と商品化」ということ。病理が商品化されるとき、商品化されうるような病を病む自分に対するナルシシスティックな自分萌えをどう処理するか、ってことです。
稲垣足穂の書いた「文学者にはナルシシズムの処理の仕方が重要」(大意)というような言葉が(自己愛性人格障害気味のわたくしとしましては)ずっと気にかかっているのですが、それは文学だけでなく、芸・芸術全般に言えることであろうと考えます。そして、かまってちゃん流血ライブ(これもyoutubeで観賞可)の後に、流血しておきながら「血を流したことは、ずるい!」と言うたの子氏は、どうもそのへんを弁えているらしい――というとえらそうだが――、と直感しております。


さらに関係ないのですが、このジャケ写に対するネットの反応など見ていますとあれですなあ、血を出すだけで「話題づくり」になりうるというところに、逆に(何が逆なのかいまいち分からないが)血液タブーの強さを感じますなあ。血液タブーがなくなって流血画像や流血映像がもっと解放されたなら、自傷ラーの人にとってはどうなんでしょうか、自傷衝動はやはり増すんでしょうか、逆にラクになったりしないでしょうか。少なくとも自傷にまつわる後ろめたさは軽減されるとおもうんですけどね。あと、日常的に女性のセクシュアリティがどうの、とかばかり言っているとつい忘れがちなのですが、月経タブーの根強さにもときどき驚きます。以前、生理用ナプキンがカイワレ大根栽培に適しているという話をネットで見たんですが、「気持ち悪い」「衛生上悪い」というコメントだらけで、衛生上悪いも何も、使用済ならともかく未使用のナプキンなんてただの紙やがな、とおもうた。ライブ感想から大幅に話がずれたところで、終わるとしましょう。

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