読書の冬(2)室井光広『おどるでく―猫又伝奇集』―― おどるでくはぷかぷか笑ったよ(お父さんは心配症)

室井光広『おどるでく――猫又伝奇集』(中公文庫、2023)

最近何度も読み返している小説はコレです。

今いちばんみんなの感想を聞きたい、友達と一緒に読みたい小説かもしれません。紹介したらみんな読んでくれるかな~~と思うので紹介します!

 

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以前にこちらでも言及しました。

続続・芥川賞ひとこと感想日記(1999-1990) - 京都ぬるぬるブログ2.0

「おどるでく」は1994年の芥川賞受賞作。芥川賞受賞作であるにもかかわらずずっと文庫化されていなかった作品で、人に勧めようとすると図書館か古本で探してもらうしかなかったので、文庫になって人に勧めやすくなって嬉しいです!! 

 

文庫版には、表題作「おどるでく」と既読だった「大字哀野」以外にも、「猫又拾遺」「かなしがりや」等が収録されていて、どれもすごく面白かった……! しかし、何が面白いのか、を説明しようとすると……難しい!! みんなに勧めたいと言い乍ら! 御免! これは博覧強記の人であり理論家でもあったという作者の思考にわたくしめの教養と理解が追いついていないためと思われますが、それらの不足はしょうがないとして開き直って「ここが気持ちよかった!」という感覚的な部分のみを説明するとすれば、一文進むごとに回路がつながっては切断されて切断されてはつながってゆく、まるで謎解きやミステリーを読むような感じのわくわくがずっとありました。実際二回目はこんなふうにメモ(?)をしながら読みまして、その作業が街の歴史を調べてマップを作るときみたいで愉しかった~!

 

 

この方の作品は、一般には、ストーリー性がないとか前衛的とかいわれる類の作品であろうと思います。よって普通の意味では謎解きとかミステリーとかになぞらえるのは変ではあるのです。しかし、読み進むごとに、そうした作品を読むときの昂奮に似た「そういうことか!」「そんなんありか!」が訪れます。といってもそれは、何か特定の解くべき謎が明かされるときの昂奮ではなく、読む間、言葉と言葉の接続と切断の妙味に気づかされ続けるような感じ、そのときの含み笑いがずっと続く感じ。読むたびにいくらでも新たな「そういうことか!」「そんなんありか!」が発生しそうな感じ。

 

昔、「川のそばでパンにウジ虫がたかっている」という夢を見たことがあります。わっ気色悪っ、何この夢! と思いながら起きて、ハッと気づけばその前夜に古文の勉強をして(※当時受験生だった)、源氏物語の「宇治十帖」の一場面を読んでいたのでした。あ、「宇治」やから「蛆」なんや、と脳内の配線に気づき「そういうことか~、いや、そんなんありか」と感心しつつも笑ってしまいました。一見意味のない不条理な夢が、実は意識下で言語(あんまり単純な駄洒落的言語)に縛られていたことに気づいての、「そういうことか」と「そんなんありか」であったのですが、でもそれは言語の外に出られぬことの味気なさでなく、言語の果てのなさのわくわく、無限の釈迦の掌で転がされるわくわくであり、そう、本作に感じたわくわくも、そんな感じ。

 

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さて表題作の「おどるでく」ってタイトル、これは何だ、という謎とともに読者は読み進めることとなるのだけれど、おどるでくの正体を見つけるというよりは、言葉が連なる連なりの中におどるでくの姿が浮きみ沈みみするのと一緒にぷかぷかし続ける感じ。作中で、「おどるでく」はいろんな言葉で言い換えられます。

 

スマッコワラシに似た印象、萱葺き屋根の高天井の厄除け人形、ゲニウス・ロキのような本質的実在、かまいたち、「何らかのかたちでの記述に駆りたてる感情」、やくざれ=おんぞこない=おいなしっぽ、要するに霊的存在、ねこまたのきかせ、生ける屍、はらいそへの階段=天使の通路、日本語、日本語のふりがな………。

 

いずれも亡霊のような、何かの成り損ないのような、何かと何かのあわいの存在のような、(新たにリストを増やすなら)水蛭子的なイメージです。「おどるでく」は「仮名書露文」氏――日本近代文学の胎児期(?)の人をもじり元とする命名だ――の「ロシア字日記」に繰り返し現れる謎の言葉であるとされます。露文氏のロシア字日記は日本語をキリル文字で表記したものであるから、本来の表記は「одорудэку」。カフカの「オドラデク」は、スラヴ語かドイツ語だか分からずいずれにしても意味不明の名であるとされていました。日本語に引き寄せるとたしかに「踊る木偶」と聞きなしたくなるけれど。露文氏は存在しない語を存在しない日本語に翻訳し、さらにロシア字という「隠れ蓑」でその日本語性を隠す。事物と直接結ばれることのけっしてない、言葉というものの亡霊性の自己言及のようなおどるでく。

 

しかし本作の魅力は、単に言葉ってふしぎねえという話でなくて、そうした亡霊のように浮遊する言葉が具体的な土地の土地性によって辛うじて繋ぎ止められているところにあるのだと思います。実は初読のときは本作が著者の故郷である会津を舞台にしているらしいことに気づかず(その直後に始めて会津に行ったのでした)、後で解説を読んで、アアッ、あれが大内宿か、あれが塔のへつりか!となったのでした。たとえば、「翻字は存在しない言語である。ドストエフスキーやDostoievskiはどこにもおらずДостое́вскийだけが実在する」(p.227)と言われ、すると私(たち)の親しんだドストエフスキーが急にファァッと宙に浮き、あなたのいない右側に心許なさを覚えたところで、そもそも「存在しない言葉、より正確にいえば、実在する言語の意味を捨てて読みと文字だけを採用した段階でわがイロハは産声をあげた」(p.228)と私(たち)の言語体系がまるごと幽霊であることを言い明かされ、しかしその直後、東北本線なるものがおびただしい駅と駅をつないで成っているように、一つの抽象的段階は千の階段から出来ている」という喩えによって、JRの東北本線のひとつひとつの駅が呼び出されファァッと浮遊された言葉たちが(釘を打たれた藁人形のように)土地によって実体として裏付けられたような感覚が得られるのです。更にその後、

「万葉仮名も、『どちりなきりしたん』の変体仮名もそうした階段の一つであろうか」

と、実際にかつて生きた人間たちから出た言葉と、それを書き留めるための文字が、歴史的苦心によって辛うじて結ばれるのであって、おどるでくは単なる亡霊でなく、苦心する亡霊という感じ。

 

苦心というのは翻訳の苦心だと思います。「あらゆる翻訳は最終的に原作の行間にただようおどるでくを読者の心底にうつすことを目的とするといってもいいだろう。そのうつし方は、病気をうつすようにしてなされる」(p.198)。著者は実際に多くの言語に通じていた人らしく、語学苦手人である私がどれだけこの感覚が理解できているか怪しいものの、「うつす」ことはたとえば日本語と外国語(本当は「外国語」って言葉も変だ)のあいだだけでなく、土地の言葉といわゆる標準語のあいだ、漢字と仮名のあいだ、ヨーロッパ文学と日本近代文学のあいだ、音声と文字のあいだで行われる(行われてきた)ことでもあって、いずれも縦横に互換できる魔法のようでありながらどうしても互換不可能なものが残ってしまう、残り滓のような余剰のようなそいつらが、おどるでくなんでしょうか。

 

上の私の夢の話をもう一度ぶり返すと、単に「宇治」が夢の中で「蛆」に変わったというだけであれば、つまり「宇治」と「蛆」が一対一で互換できる単なる駄洒落であったならば、この夢はそんなに印象的ではなかったし感心することもなかったでしょう。私がその朝感じた驚きは、何というかその「余剰」みたいな部分にあったのだと思います。たとえば「宇治」は和歌の中ではしばしば「憂し」と掛詞にされるでしょう。であるから鬱々とした私の心の投影でもあった、と決着しそうになったところで、ほな蛆のたかっていたパンはなんなのか、あれはどこから来たのか? 聖体拝領? そういえば、当時近所にあって幼い頃から通っていたパン屋さんは、その後宇治に移転したんでした。でもそれは最近のことであるから当時は知る由もない。パンが落ちていたのは存在しない京阪電鉄の駅。ホームを降りるときっと浮舟が身を投げた宇治川が流れていて、川岸には私の産んだ(産み損なった)水蛭子たちが漂着している。

 

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あー もっとちゃんと語れたらいいのに感覚めいた話しかできなんだ。室井光広は批評家でもあって、『カフカ入門 ――世界文学依存症』(東海大学出版会、2007)という本も出ています。「おどるでく」を読むヒントになるかな? と「カンニング」のようなつもりで「父の気がかり」考を読んでみましたら、たぶん「おどるでく」と似たことが書かれているっぽかった……「っぽかった」というのは評論とはいえ難解であって「っぽかった」としかいえないからであって、評論が小説作品の注釈になるタイプの作家ではなく評論と小説が一体になっておどるでくを為している人なのだなと分かりました。

 

「おどるでく」の話ばかりしてしまったけれど、本書に収録されている作品では「大字哀野」も好きです。今回初めて読んだ「かなしがりや」は、私小説的な面も強くて面白かった。予備校の国語の試験問題作りに勤しむ語り手の、次の一節が好きです。言い得て妙で、同業の人は笑ってしまうかも(肺のない人のように)。「妻にも揶揄された通り、ヨモギ作りにいそしんでいると、ひとまとまりの生きた文章の一部を前後不同のバラバラ死体に切り刻んだりカッコ付きの空欄にしたりして問題をひねり出すいじましい習慣が抜けなくなる」(p.113)