阪神・淡路大震災から三十年だそうです。当時自分は高校生でした。
直接の被災者というわけではなく(住んでいた地域は震度5弱で大きな被害はありませんでした)、被害そのものを語る資格は持ちませんが、その後の自分に大きな影響を及ぼした揺れでした。三十年経っているので記憶がいくらか変容しているであろうとは思われますが、本格的にいろんなことを忘れ始めた昨今であるので、覚えていることを記録しておこうと思います。
揺れたとき、私は木造ボロ家である実家の二階で寝ていました。そのとき見ていた夢はよく覚えています。
大きな牛に追いかけられている。私は家の風呂場に逃げ込む(注:ボロ家の中で風呂とトイレだけは唯一少し前にリフォームしており比較的堅牢だった)。牛はドスドスと追ってくる。私は浴槽のへりに掴まるが、牛による震動で足元が崩れてゆく。
うわーーー!! と目を覚ますと、目を覚ましても震動が続いており、地震か! と分かりました。我が家は家の前を小さな車が通ってもそこそこ揺れる程度のボロ家でしたが、それでもそれまでに経験したことのない揺れでした。揺れは長く続きました。当時個室がなく家族は雑魚寝のような状態で寝ていたので、皆同じ場所にいたはずですが、誰がどんな順番で目を覚ましたかとかどんな言葉を交わしたかとかは覚えていません。
揺れが収まり、TVをつけました。この時点では震源は愛知であると報道されていましたが、われわれは釈然としませんでした。震源であるはずの愛知の震度よりも、今経験した震度のほうが明らかに大きいように感じたからです。
自スペースに行くと、本棚の本が飛び出し学習デスクの引き出しが開ききっていました。大きな地震になると、プライバシーとか吹っ飛んでしまうのだな、と思いました(当時私は学習デスクの中に諸々の見られたくない文書を秘めていたので、それが誰に見られるわけでなくとも、震動という自然によって露わにせられたことにイヤ~な気持ちになったのでした)。当時我が家は酒屋を営んでいましたが、店頭の瓶がいくつか割れ、床がワイン浸しになりました。これは親が掃除しました。その他食器棚の中も乱れ食器もいくつか割れた気がします。すべて初めてのことでした。
日頃の起床時間には早い時間でしたが、二度寝する感じにもなれず、ずっと家の中を見て回ったりTVを観たりしていたと思います。やがて、震源が神戸のほうであるとの報道に変わりました。
被災地の様子が分かってきたのは、ようよう外が明るくなった頃でした。「大変なことになってる」と母が言った気がします。ふしぎなことに、同居していたはずの祖父母の様子を覚えていません。つい先日これについて父と話す機会がありました。父は非常に親孝行であったので真っ先に祖父母の心配をしたはずと思うのですが、なんと父も当日の祖父母の動向をまったく覚えていませんでした。
その日はたぶんふつうに学校があり、ふつうに登校したと思いますが、学校がどんなふうだったかも覚えていません。ただ、弁当の時間に、私の米がひどい「寄り弁」になっていまして(※私はしょっちゅう弁当を寄り弁にしていた)、友達と「活断層や」と喩えた直後に不謹慎さに気づき「いや、笑い事とちゃうな」と言った記憶があります。このときは、全貌は分からないが神戸が大変なことになっているらしいという情報をもうぼんやり知っていたのでしょう。「活断層」という言葉もこの頃に初めて知った気がします。
京都と神戸はJRで1時間もかけずに行き来できる距離であり、今は私も日常的に行ったり通ったりする土地ですが、当時、私は神戸にほぼ行ったことがなく土地のイメージがあまりありませんでした(なんなら神戸に行くことを「旅行」と呼んでいました、それくらいの距離感でした)。ただ、「わりと近いところで大変なことが起こっている」「同じ揺れを経験しながらこっちは無事なのに」という思いで、ずっとお腹の下のほうがモヤモヤするような、足元がグラグラするような感じで一日を過ごしました。
その後、報道の中で少しずつ状況が分かってきました。報道される犠牲者数が増えてゆきました。その頃の思いは事後的には書くことができない(どうしても「現在視点から再構成したそのときの思い」になってしまう)ので、書かずにおきます。
身近に起こったことで印象に残っていることを書きます。
ひとつは、母に連れられて近鉄百貨店に「きれいでマシなパジャマ」を買いに行ったことです。次に強い揺れが来たらば我が家は倒壊することは必至であり、「そのときボロボロの寝巻きやったら恥ずかしいから」といって母は自分と子どもたちのパジャマを一式新調したのでした。赤いパジャマを買うてもらいました。今考えるとアホか!他にもっとやることあるやろ! と思うのですが、当時は真面目でした。というか今ほど、防災情報(避難グッズとして何を用意しておくべき、等)が一般的でなかったように思います。現在のわれわれの防災意識は、度重なる被害を経てヴァージョンアップされてきたものです。
もうひとつは、デマが流れまくったことです。「〇月〇日に震度〇の余震が来る」という類のデマがいくつも流れました。いとこが高校で「一週間後に余震が来るんやって!」という情報を得、それを聞かされた伯父が「アホか、そんなもんデマや!」と叱っているときにその弟が中学校から還ってきて、「お父さん!」と何を言うかと思ったら「一週間後に余震が来るんやって!」というものだから再び伯父が「そんなもんデマや!」と怒り、それだのに一週間後伯父だけが眠れず深夜まで起きていた……というような笑い話も親戚内でありました。これは笑い話として語られましたが、まだSNSもスマホもケータイメールすらも無い時代、口コミのみでそれだけのデマが流れたのであるから人類のデマを流す才能は恐ろしいものです(誉めてません)。災害と流言がセットであることは歴史的知識として知っていましたが、それを目の当たりにしました。恐ろしいことです。こうしたデマの猛威は一、二カ月続きました。なぜ一、二カ月かというと同年の三月に地下鉄サリン事件が起こり、人びとの関心とデマ力がそちらに注がれることになったからです。
あの震災以降、私は、少しの揺れでも頭が真っ白になってしまうようになりました。また、「地震が来たらどうせめちゃめちゃになる」と思うと、家の中を整えたりきれいにしたりすることにあまり関心をもてなくなりました(ただしこれは単にずぼらのゆえである可能性もあり、震災の影響なのか元来の性質によるのか区別がつかない)。また、しょっちゅう、「倒れてもダメージのないようなぽよぽよの素材で家ができればいいのに」と夢想するようになりました。今もわれわれは、いずれまた(あるいは今すぐにでも)揺れることが確定している地の上に立っています。本当は地震そのものが根絶されてほしいが、今の人類の技術ではそれはムリそうであるので、せめて上に立つ人が民の命を大事だと考えて、防災に少しでも多く金とか力とかを使ってくれればよいのだが、と願っております。
震災の三年後に大学に入学しました。新入生歓迎会で「神戸出身です、家は全壊しました!」と言った人がいたのを覚えています。あまりに明るく爽やかな口調と「全壊」という言葉の不調和で笑いを取っていたけれど、大変だったことだろうな、と今になって思います。この頃活動範囲が広がり大阪や神戸に行くことも増えましたが、神戸にはまだ倒壊したまま残されている建物もありました。
2000年頃だったか、ナメちゃんとルミナリエに行きました。なんで行くことになったのかは忘れましたが、「うちらもたまにはキラキラしたところに行こう!」的なアレで出かけたのでした。行ってみると本当に綺麗で、綺麗!綺麗!とはしゃいで地元のおじさんに写真を撮ってもらいました(まだデジカメでなく「写ルンです」でした)。なぜか微妙に離れて立っていたわれわれに、おじさんが「なんで微妙に離れてるねん! もっと近づいて近づいて! もっと仲良う!」と言い、爆笑しました。帰りは中華街で中華を食べました。光と活気に溢れた愉快な神戸であり出会った人々も皆陽気でしたが、今思えば、震災を経験して十年も経たない頃だったのでした。