『ゴールデンカムイ』、完結しましたね。読み終えて、作者でもないくせに「疲れた……!」と言うてしまいました。週刊連載漫画を読むという体験を、大人になるまでしたことがなかったのですが(『月曜日の友達』で隔週連載読者デビュー、『チェンソーマン』で初めての少年ジャンプ)、大変感情を揺さぶられるものなのだなと分かりました。ストレスとライフイベントの関係の研究として有名な、「社会的再適応評価尺度」というやつがありますよね。「配偶者の死」を100として、離婚、親族の死、失業、借金……などがどの程度のストレスになりうるかを数値化したもので、ネガティブなライフイベントだけでなく、一般的には良いこととされる結婚、成功、クリスマス(!)などもストレッサーであるということを示した表でありますが、あれでいうと、「週刊連載漫画を読む」「週刊連載漫画における衝撃的な展開」「読んできた漫画の最終回」はどのあたりに位置づけられるのか、知りたいところであります。
自分は漫画でも小説でも、すぐに感想を言うというのができない人間で、だいたい初読時は「脳内ポイズンベリーだった」(※310話感想)とかしかいえず、すぐに鋭い視点を発信できる人すげーなといつも思っていますが、金カムはこのブログでも何度かオススメしたので、読んだ日ホヤホヤの感想を記しておきたく思う次第です。読み返すうちにまた変わってはくるんでしょうけど。
最終回のひとつ前は鶴見回というべき回でした。それぞれに魅力的なキャラクタが現れるこの作品ではありますが、そういえば、読み始めた頃にぐっと惹きこまれたのは鶴見中尉の造型であったな~と思い出しました。
序盤に、アッ、この漫画怖い(いい意味で)!と感じたのは、串団子ぶっ刺しの回と二階堂の耳の回です。私は、カリスマ的人物が、肉体的・精神的な残虐を通して巧みに人を支配する図に興味があります。それは権力の魔的な部分の象徴でもあります。ユーモアある軽口を言いながら怖ろしいことをやってのける鶴見は、そのような、恐怖と魅力を併せ持つ人物として描かれているんだな、と理解したのでした。が、その後、どうもそれだけでもなさそう!と混乱したのはエドガイファッションショー回。「怖ろしくかつ魅力的な軍人」というのは、矛盾した要素を併せ持ちつつもある種の定型ではありますが、「あ、そういう定型で語れないキャラクターを描く漫画なんだ!」と大変驚きました(勿論いい意味で)。ここで鶴見は、エドガイくんの親離れのカウンセラー役を果たし、彼の人革グッズ制作に理解を示します。けったいな部下たちに見せる懐の深さも同様、善悪を超えて包容する父性とでもいうか。(そしてそれは、勧善懲悪でなく、悪人もまた自らの道を進み救われるというこの作品の懐の深さとも通じているように感じました。)
後半では、鶴見の真意が私的な復讐や弔いにあるのか、それとも国家という大義にあるのか、ということがひとつの謎になります。作中では、後者であることが部下たちにとっては望ましいこととして描かれますが、しかし、いずれであっても彼の行かんとする道は、現代においては否定されるべき植民地主義であります。残虐さとカリスマ的魅力をもち、なおかつその奥の人間的なものとの間で揺れながら、そうした否定されるべき理想をもつこの登場人物が、完結に向けてどう描かれていくのか……というのはスリリングな見どころでありましたが、最後結局そんな葛藤には触れられずなんとなく勧善懲悪のように終わってしまい、あれれ……、という感想であります。
まあそれは単に自分の勝手な期待が外れたというだけの話なんですが、しかし最終回、いろいろ「ええんか?」ってきもちではあります。そもそもそこ(植民地主義が否定されるべきものであるということ)をべつに前提としない作品であったんやろか……。鯉登は作中最もかっこよく成長したキャラクターですが、「成長」して向かって行く先の戦争の顛末を現代のわれわれは知っているわけですし、「アイヌと和人の努力によって」アイヌの文物が後世に伝えられているというくだりは、(これが完全に非実在の民族の話ならばともかく現実とリンクさせられているので、)やはりひっかかってしまいますよね。以前に、ツイッターで、「もっと侵略の歴史が悪だという社会的合意ができている社会でこの作品を読みたかった」というようなことを仰ってる方を見かけまして(今そのツイートを見つけられないので文言は違ったと思いますが)、まさにそれに尽きるなあ、って感じです。フィクションって、フィクションですが、やっぱりそれが読まれる文脈の中に存在してしまうので、もしそのような社会においてであれば「そういう和人もいたんだね」「そうだったらよかったね」と素直に読めたのかもしれません。が、(過去の過ちを改めることで得られるまっとうな自尊心でなく)大日本帝国に同一化してその過ちを否定する形での自己愛ばかり肥大している現状の中でこの一文を見るのは、ツラいものがあります。実際の民族問題に大団円はないのだから(少なくとも今のところ)、そこはむりに大団円にせんでもええのになア……と思ったり。
でもまあそこを描くのはこの作品の「役目」の外のことで、この最終回はあくまで夢オチの一種みたいなもので、あとは読んだ各自でちゃんと調べたり読んだりせえよ、ってことなんすかね。「ちゃんと」の部分については、最近、岩波書店から『アイヌ通史』という本が刊行されたので、読まねばな~と思っております。また、わずかなりとも大学と関わりのあったものとして気になっておる遺骨盗掘問題についても、多数書籍が出ていることを教えられました。と申しても私も民族問題についてまったく無知であり、この作品や作品をめぐる言説を通して初めて意識するようになったこと・知ったことも多いです。
最終回でよかったところとしては、頭巾ちゃんが画家になれていたところですね。頭巾ちゃんはずっとお絵描きしててほしい……と思ってたのでよかったです。310話ショックは癒えておりませんが(私の310話嘆きはこちら)、山猫はたしかに死んだのだということ、かつ、彼も誰かに記憶されていたことをこうした形で見せてくるのは、おおう、そうきたか! と思いました。
私がこの作品で好きなのは、登場人物同士があまり言語で対話しないところです。言語でなく暴力で分かり合うところ。それはふつうに考えれば欠点でしょうし現実には暴力で分かり合うなんてことはほぼ無いと思われますが、それこそ、フィクションだからこその暴力のエロティックさ(杉元vs辺見とか、「血濡れ事」とか)。作中一度も対面してすらいない頭巾ちゃんと尾形が、銃弾を通して語り合い、しかもそのように暴力でつながった者たちの絆が、結局銃とも軍隊とも関係ない芸術という文脈で回収されたのがいい。虚無師団長になろうとしていた尾形は、芸術には興味なかったと思いますが、なんかこれは「いい他者性」って感じがします。
それにしても、大団円(?)最終回を読んだことで、逆説的(??)に、「はっきり悪意のあるものが好き」「純粋暴力が好き」という自分の好みが明確になってしまいました。連載終了した今、記憶の中で燦然と輝いているのは、宇佐美のいきなり喉笛踏みつけ回です。あとおまる殴打。