尾形回感想

漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル作、ヤングジャンプ連載)を読んでるよという話は以前に書いたんでしたが、あねから「310話の感想を書いてほしい、心を救ってくれ」というリクエストをいただきました。到底わたくしめの駄文であねの心が救える気はしないので、藁(駄文)をも掴もうとするあねの溺れっぷりが心配になりますが、つらみの海に溺れざるをえない回であったため、自分のつらみ整理のためにも書いてみましょう……。

当然ながら以下ネタバレです。


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310話、なんか『脳内ポイズンベリー』みたいの始まったっ! そして急に説明セリフをしゃべりまくり始めたっ!……ってのがまず最初の感想です。いやいやいや……。ファンブックの「自己増殖する尾形」がかなり好きなんですが(私は自己増殖が好き)、こんな増殖は要らん!
「尾形」(※あねの推し)は主要登場人物でありながら、長い連載の間その真意が一切明かされないというミステリアスなキャラクター。当初、人気キャラクターとは知らず読み進めていたのですが、流氷の共感性羞恥回(19巻)以降すっかり私も彼に肩入れして読むことになりました。とりわけ樺太逃走劇が好きですね。命の恩人を殴り倒して逃げる! しかも半裸で。ピカレスクって今どき流行らんのかもしれませんが、尾形に注目して読むとこのくだりは最高にわくわくさせられるピカレスクロマンって感じでした。

作中いろんな陣営が出てきて、敵味方がそれぞれの目的をもつこの物語の中で、どの陣営にも属さず、属したかと思えば裏切る、というこのキャラクターは絶妙なトリックスターであり、また、われわれ焼畑民(c:さーもんさん)は共感せずにおれません。ひとりだけ海辺でジャンプしないのとか「あるある!」て思うよね。 かつ、なんぼ人間関係の焼畑を繰り返すわれわれといえど、命の恩人を半殺しにするまではなかなかできない。よって痛快。もちろんおまるで殴って逃走する場面も好きです。こうやって並べるといかに私が「殴って逃げる」が好きかが分かりますね。最悪です。(実際には殴って逃げたことは(今のところ)ないですよ。どちらかといえば殴られる側なので……)

 

そんなわけで、尾形にはもうひと暴れしてラストまで逃げ切ってほしかったのですが、予想外の展開でありました……。端的に言うて「そりゃないよおお」て感想でございます。310話、読後は延々とあねやさーもんさんと感想を言い続け、というか呻き続け、深夜まで起きていましたね。雪合戦(チェンソーマン)以来の深夜呻き大会です。まるで実際に存在する人間の悲報を聞いたかのような気持ちにさせられましたが、漫画という架空の世界の架空のキャラクターの死で、なぜわれわれはこんなにショックを受けるのか? 私はお話を読むときにあんまり予想したり期待したりしないほうなんですが、この作品、とりわけこのキャラクターには諸々の期待を託しつつ読んでしまっていたのでしょう。

 

ゴールデンカムイ』の好きなところのひとつとして、ある種のマッチョイズムがあります。本作には、現代基準であればカウンセリングやケアが必要そうな人物も多々登場しますが、現代的な「心」の物語にならず、各登場人物がフィジカルで道を開いていくようなところが好きなのです。マッチョイズムという語が語弊があるのであれば、因果律をぶった切ってしまうわけのわからなさ、とでもいいましょうか。端的にはいきなりの羆とか誰ですおじさんとかの闖入系がその象徴ですが、尾形の物語も家庭環境からの因果で説明できそうである一方で、家庭環境に何ら問題がなかったのにああなってしまった人物(宇佐美)が配置されることでなんだかよくわからなくなる、とか。(これについては、以前に心理学者の人が「かつては個人差を環境因で語るほうが好まれたが、今は遺伝因で語るほうが好まれる」というようなことを言うておられたのを思い出します。尾形/宇佐美の造形はそうした空気を受けての作者のバランス感覚であるのかななどと思うと同時に、単純に、なんかわけわからんものの存在があるほうが面白いよね。ひとりの人物についても、怖い人物として描かれたかと思えば愉快な面やえらく可愛い面が描かれる、という一筋縄でいかなさが本作の魅力ですし。)

………という好み、まあ個人的な好みなんですが――のもとに本作を読んできたため、尾形の最期はなんちうか、ベタな「心」と分かりやすい因果の話になっちまったな、という寂しさがありますね。もっというと、「心」の話になってしまったにもかかわらずケアが与えられない、おれの好きなのはそっちのマッチョイズムじゃないんだよお、みたいな。

 

抑圧されたものが回帰してくる構図自体は大変よく分かる、見慣れたものであるけれども、われら焼畑応援団としては、彼がいかに「我に返るスキマを埋め」続けるかという物語をもっと見たかった気がします。まあ返るべき「我」がテーマであるならしょうがないんですが、その「我」が実にベタな愛と罪悪感であったのがなんとも物悲しい。尾形は孤独でありながらもなんだかんだ愉しげなのが魅力的なキャラクターであったので(独り言がやたら多いのも共感ポイントですね)、愛や祝福などなくともゴキゲンに生きていけるところをもっと見せてほしかったが……。そうか、この虚脱感、何かに似ているなと思ったらば、かつて一緒にいてすこぶる愉しかった人が実は躁状態であった、ということがあとで分かったときの気持ちでした。躁のときの祝祭感や万能感って他人をも巻き込むもので、私も彼と話しながらそのテンションをお裾分けされたように盛り上がっていたのでしたが、それは症状であってほどなく本人が鬱に転じたことを知り、あんなに愉しそうだったのに本当はギリギリだったんだね、という虚脱感と、結果的に人の症状にのっかってしまったのかという申し訳なさを覚えたのでした。思えば、五稜郭篇以降のメンズナックルみたいな躁的台詞も、わざとそのように描かれていたのでしょうなあ。

 

ところで、尾形のテーマである「罪悪感」て、異母兄弟問答回の時点からどうもピンとこなくて、まあでもこの作品・このキャラにとってはなんか大事なんやろなあと思いながら読んできたのですが、ピンとこなさの原因として、この時代の帝国という背景抜きに個人の罪悪感を云々してもなあ、ってのがあります。他にも本作の背景には明示的には描かれない気になりポイントが多々あり(常にアイデンティティを問われる少数民族とそうではない和人の非対称など)、そのへんが物語のトリックスターたる尾形と絡めて触れられるのでは……?という期待がなんとなーくあったのですが、310話はなんか怒涛のポイズンベリーのうちにあっけなく終わってしもた……て感じです。このあたりは作品が完結しなければなんともいえないところですが……!

 

以上はメタ的つらみの整理でありますが、310話は、つら民の内面がまざまざと描写されている回ともいえます。「罪悪感があるということは、俺は欠けていない人間ということであり、欠けていない人間であるということは、両親の間に一瞬でも愛があったということであり、自分は祝福されていたということである」という尾形独自理論はほぼ意味不明であり、誰かつっこんでやれよ……あ、でも誰も彼の内面を知らないのか、うう……て感じですが、そんな独自理論でグルグルした末に詰みになってしまう現象自体は、つら民あるあるなんですよね。そしてまたこの理論自体は意味不明であるにせよ、その核にある、「祝福を受けたい、だがそのためには認めたくないことを認めねばならない」というジレンマや、「罪悪感を認めても、建て直すべき対象(母や弟)は既に自分が毀損している」というメラニー・クライン的やってしもた感(そこから躁的防衛の旅が始まるということか…)は、非常によく解るところであります。このどうにもならなさが、「光を与え/殺される」の台詞に集約されていました。「早期の過ちを認識してしまったら人はどうやって生きていけばよいのか?」というのは、自分自身よく陥るつらみでもあり、あるあるだからこそ「ベタ」と感じてしまったのでしょう。309話がそんなベタを蹴散らかすような生のエネルギーに満ちていただけに、そういうのをもっと見たかったよう、あっけなさすぎるよう、て気持ちと、どうせベタでしかありえない人間の中身をそのまま描くとこうしかならないのだな、て気持ちがあります。

見どころとしては「主人公に託された伝説の刀のひどい使い方」なんでしょうが、そういう悪趣味ひどみは好きなはずのわたくしも、ちょっとそれどころやありませんでした。

 

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ところで、尾形正存ルートを望んではいたのですが、もし非生存ルートになるなら、「Knockin’ on Heaven’s Door」か「とどめをハデにくれ」が流れるような最期の描き方だといいな……と勝手に思い描いておりました(なぜオタク的読者はすぐに好きな漫画のBGMを考えるのか)。つまり、おっ母に静かに銃を下ろされ微笑みながら目を閉じるような最期か、わけわからんまま哄笑のうちに終わる最期か。が、実際は両者を足して4くらいで割った感じでしたね……。

 

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最終章に入ってからの金カム、尾形以外のメイン登場人物もなんか爆速で死んでいってるんで、ええええ~って感じです。土方も、裏切り爺さんなところが好きだったのに義の人として逝ってしもたし……まあ人の死ってそういうものなのかもしれませんが。さらに、ここのところ、主人公の格好イイところが見事に一切描かれないのもすごい。杉元は主人公でありながら「なんか信用ならない人物」(c:さーもんさん)であるところがこの作品の良さではあるんですが、もはや信用ならなさを超えて悪役のような台詞か「羆をやっつけて」とかしか言っていない! 意図的にそう描かれているのかどうかもよく分からない!  彼はどうなってゆくのか、とかく最終章を見守る所存であります。

それにしても長く続いたお話のラストを描くって難しいのでありましょうねえ。超人気雑誌の週刊連載と自分とを同列に語るのはおこがましいのですが、私も文章を書くときにいつも結論を書けないできたので、それがこれほど壮大な物語となるとすげえプレッシャーやろなと想像します。長年続いた連載ものの最終回って、どんなによい最終回でも必ずどこか違和感がありますよね。というのは、現実のできごとや現実の思考ってそもそも終わりが存在しないものであるから、つまり現実にはまったく存在しない「結末」というものを作ってみせねばならないわけであるから、それでなんだろうなあ、と思ったりします。