春の憂鬱と犬

春が来たようです。

毎年書いてる気がしますが、なぜだか犬のことが強く思い出される季節です。犬が来た季節でも犬が逝った季節でもないのに、ふしぎなことです。おそらく春のお散歩の記憶が強いのでしょう。

 

このタイプの人はよくいると思いますし伝統的な類型だと思いますが、私は春に不安定になりがちなタイプです。

春は好きなのです。花粉症は辛いですがそれ以上に、いろんなお花が咲くのん好きやし気温が上がって薄着になるんは単純に嬉しいし。が、同時に、春って変化の季節でもあり、それまでを振り返ってしまう季節でもあり、とかく憂鬱になりがちです。もしかしたら、美しく愉しいはずの春を存分に愉しみきれない、何か足りない、という思いが、憂鬱をより憂鬱にしているのかもしれません。

 

 

まめ子が来たとき、「これで次の春は大丈夫だ!」と思った記憶があります。

実際、桜の咲く川沿いを歩いたり菜の花の中で転がったり、犬のいる春は忙しく愉快なものでした。春の憂鬱が完全に無かったわけではないですが、それよりも、躍動の季節が来た喜びが増していました。特に、冬に倒れたまめ子がだんだん元気になって復活した年の春は嬉しかったです。

まめ子亡き今、あのような春はなく、もう今後は「何か足りない」春しか来ないのだろうかと思うと淋しいものがあります。台風クラブの歌詞に倣って言うと、「金輪際で上出来の春は来ないさ」というところでしょうか。と、こうした感傷を抱くほど愉快な春の記憶があるだけで幸せなことではありますが。

 

 

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