『チェンソーマン』で私が好きなキャラに、「中村」がいます。別にメインキャラクタでなく、いわゆるモブに近いチョイ役なんですが。正確にいうと中村が好きというより、中村の登場の仕方と中村をめぐる謎の盛り上がりが好き、といいましょうか。(例によって、以下、ネタバレ注意でございます。)
中村が登場するコマは、作中数えるほどしかないですし、中村には特に際立った役割は何もないんですが(ストーリー上の必要だけを考えるなら何故登場させたかよく分からない(少なくとも今のところ))、読者に強烈な印象を残す、それが中村です。
やたら気合いの入った登場シーン。にもかかわらず、皆に「誰?」とつっこまれ、やっと名乗りの長台詞がもらえたかと思えば他の人物の台詞に遮られる……。それだけのわずか数コマで、「実直で一生懸命だがなんか残念」という中村の人物像が把握される、それが中村です。読者はそれぞれ、「あー、中村みたいなやついるいる」とか「あー、職場での俺だ」とか思い当たることでしょう。これまでの登場人物がこともなげに使役していた狐の悪魔を、めっちゃ気合い入れて使ってるコマもいいですね。中村の一生懸命さが伝わります。ただしかつての解説によると「イケメンしか使えない」狐の頭は使わせてもらえておらず、そんなところにも中村の哀愁を感じます。でも中村当人は何とも思ってなさそう、それが中村です。
そんな、チョイ役のうえに特にカッコイイ役ではない中村なんですが(たいして活躍しないし)、なぜかキャラクター人気投票でそこそこ上位に食い込んだり(投票サイトの画像セレクトがひどい)、なぜか中村コラが作られたり、という謎の現象も最高です。これはひとえに、チョイ出の脇役までリアルな存在感を放つ、この作品の力によるものなんでしょうなあ。
ところで、『チェンソーマン』の人気についてはしばしば、「人がボコボコ死ぬ残酷で過激なところがサブカル好きにウケてるんやろ」みたいに語られているのを見かけますが、私はちょっと違うと思うんですよね。たしかに人は非情に死ぬんですが、実際に人は非情に死ぬじゃないですか……。その淡々とした非情さが、作品の魅力なのかなと思います。エキセントリックな非情さでなくてね。深沢七郎の「笛吹川」みたいな(ちょっと違うか……)。
我らが中村もあっというまに物語から退場してしまいました。つらみ師・さーもんさんが「並みの作家なら中村をもっと生かしておいてギャグに使うと思う」と言っていましたが、チェンソはそんなおいしいキャラも惜しみなく退場させます。この漫画は上手く伏線を張る作品であり、「これがここにつながっていたのかー!」という快感がたびたび訪れる一方で、「これは伏線なのかな、あとで生かされる設定なのかな」と思われたものがぶった切られる作品でもあります。
たとえばスバルさんなんか、京都から鳴り物入りでやってきたのに特に活躍しないままでしたし。また楽しい4課飲み会のシーン、コベニちゃんを可愛がる優しい先輩や、高IQを誇る伏さんなど個性豊かなメンツが登場し、「あー、あとでこの設定が生きてくるんだな~」と思いきや……!! えええ……。でもたしかに現実だってもそうですよね、優しい人も賢い人もそんなこととは関係なくあっさり死んでしまうわけで、伏線などぶった切って続いてゆくのがリアルであるわけで……。チェンソはそれを淡々と描いていて、それは、すぐ死ぬモブにもちゃんと名前と人格と人生がある温かさ、ともいえるし、名前と人格と人生があってもすぐ死ぬモブである非情さ、ともいえるわけです。
……と書いてはきましたが、先行き予測不能の作品であるので、非情に退場していったキャラクタが何らかの形で甦るとか、伏さんの高IQ設定がラストへの壮大な伏線になっており(伏さんだけに)最後は伏さんが超インテリ作戦で大どんでん返しとか、我らが中村が重大なキーを握っていて皆を救ってくれるとか、そういう可能性は最後まで否定できませんね!