友へ/南IC補遺

「美意識の伴わない法律はうそだ!! 美意識の伴わないお金は悪だ!! 美意識の伴わない科学は破壊だ!! 美意識を伴わない学問はクズだ!!」

――と、楳図かずおの名作『14歳』にて岬総理が絶叫する台詞に延々と心打たれ続けている昨今ですが、昨日は知人の悩みの話など聞いて、諸々おもひました。

福満しげゆきのエッセイマンガに、編集者が考えたタイトルがいやでいやで眠れないという描写がありまして、でも結局その作品が続いてしばらくした頃には、「このタイトルもいい思い出です」と描かれてあって、まあそのように、折れてみた結果それなりにその現状に愛着が出てくるということもありますし、自分の美意識としてこだわってきたことが後々どうでもよくなることもままありますが、しかしそれはそれとして……。


流行を敏感に追いかけてキャッチしてお金を得る、というのもそれは立派なことで、そもそも生活できなんだら何もかもどうしようもないわけなのですが、しかし、それだけが正義だ、というふうになってしまうのはやはりまずいと思うのです。まずいっていうか、単に自分好みでないってだけかもしれませんが。
また、「仕事があるだけでも有難いのに、美意識だとかなんとか言ってずいぶん悠長なもんだな」という言い方もありますよね。ですがそこで、ははーっ(平伏) となってしまうことが唯一正しいことかといえば、やはりそれは違う!……と思うのですよ。理由は上手く説明できませんが。

このへんは、友人の話を聞いておもったというよりは、笙野vs大塚論争(よく知らないのでアレなのですが)を断片的に読みかじった頃からしばしば考えることでもあります。わたしの中で延々と笙野的なものと大塚的なものが争っているわけです。
(注:件の論争をわたしはほぼ笙野さん側からしか参照できていないので、ここでいう「大塚的なもの」とは、笙野文に読み取った限りでの大塚的なものなのですが。)
して結局はいつも、「振り子運動」(@大江健三郎)みたいな、目新しくもない結論に落ち着いてしまうのであるのですが。いや、振り子だから落ち着いてないんですが。


それで何が言いたかったかというと、何が絶対正しいかということはないのであるから、じぶんがどうしても譲れない美意識であれば、こだわる余地がある限り、こだわってみるより仕方ないのでないですか、ということでした。
友よがんがれ。でも気楽に。


それに、流行なんて変わるものだしね。


わかってもらえるさ








若干まじめなことを言ったところで申し訳ないのですが、先日の京都南ICホテル街の画像のうち、何枚か貼り忘れたものを貼っておくです。




↑かわいいコアラ





↑和食系ファミレスのようなのぼり。

入り口にもでかでかと、「えび膳はじめました」的な看板が掲げられていました。
もしもしピエロはちょっとえびをフィーチャーしすぎなのではないでしょうか。