ねもにつタププ

友人モ嬢が、
「ぬらたなら絶対共感すると思う!」
と言うて、本を貸してくれました。

岸本佐知子 『ねにもつタイプ』 (ちくま文庫、2010)


いやあ、既にタイトルに共感なわけですが……。


  

岸本さんは、本業は翻訳家。
本書は、雑誌に書かれた短いエッセイを集めたものです。
しかし、エッセイ、と呼んでよいものでしょうか。
最初は、軽妙なその文体に、ああ、よくあるゆるゆるふわふわ系かね、と思って読み始めると、いつのまにかあらぬ方向へ思考が逸れ始め、それが妄想的にエスカレート、気がつけば異様な世界が展開されている、という。
それでもまあ、ああまああるよねそういう妄想って、とふつうに読み進めていたのですが、以下のふたつの記述に出会ってぞわぞわっとなり、そして、イイ!とおもいました。


もとは土の地面だったところが舗装されてしまったら、その下で羽化を待っていた蝉の幼虫はどうなるのか。(だからアスファルトの下には、地面に出られなかった幼虫の死骸がびっしり並んでいる。)
(47頁)

週に二、三回、同じ魚が出されるのだが、それが腹に一列だけ鱗がある見たこともない種類の魚で、私たちはひそかに”ウロコ魚”と呼んでいた。ウロコ魚の身を箸でほぐすと、中から丸いものがたくさん出てきた。魚の目玉だった。
(94頁)



地面の下や魚の腹の中に潜製している不気味なもののイメージが、ふわんとした文体の隙間から、時折びゅわっと噴き出してきたのでした。

日常に潜む不気味なもの、とでもいいますと、なんかありきたりな言い方でありますが、そういえば、この本には、或る言葉や或る概念について考えているうちにいわゆるゲシュタルト崩壊現象が起こり、そこからあらぬ方向へ思考がずれ始める……といったパタンが多くて、それは、筆者が、言葉(それも異国語と母国語を行ったり来たり)というものに時に偏執的に向き合わねばならん翻訳家という職業であるからかな、とおもいました。
わたしも翻訳の真似事のようなことをしたことがありますが、異国語と母国語を対応させるとき、この言葉にこの言葉を対応させてええんかな? ってかそもそも、なんでこの言葉とこの言葉が対応するんだ? これってほんとに同じもの? だってぜんぜん違うやん、なんで同じ意味になる? ってかそもそも意味って何? 意味ってあるの?美味いの? などとぐるぐるが始まってしまい、そうすると、ふたつの言葉の隙間から、なんかきもちわるい生温かい何かがびゅっと噴き出してくるような感覚を覚えたものでした。


あと、筆者が自分のいわゆる「空気読めない」ぶりを書いた文章もいいです。たとえば「気がつかない星人」。
「空気」とは、まさに、言葉と意味の対応と同様、日常における約束ごとというか、前提というか、まあそういうもんですが、それを文章中で解体させてみせつつ、しかし自分内で完全に崩壊させてしまったなら、そもそもそんな文章は書けないわけであって(前提がなくなったら前提を疑うこともできないし)。なんちうか、散文における芸風ということについて考えます。
同時に、「空気を読むことができない」「みんなのように、あいまいなニュアンスのようなものが読めない、暗黙の約束事が理解できない」という、リアル患者さんの訴えを思い出したりしたのでした。
して、芸風と病理の違いとは、と思ったのでした。




ちなみに、ゲシュタルト崩壊といえば、さいきんこんなブログを教えてもらい、ふるふるしております。

ゲシュタルト崩壊と戦うブログ
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