続続・ねここんにゃくについて

大東市住道駅前の謎の壁画「ねここんにゃくのししそんぞん――みどり」にとりつかれてしまったことから始まった、ねここんにゃくの謎追いですが、やっと初めて、この不思議なタイトルの謎に関する情報が見つかりましたので報告いたします。

 

過去の記事:

 

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前回、当時の新聞記事に何か情報がないかと、大阪新聞および大阪日日新聞をあたってみたものの何も見つからなかったのでした。その後、全国紙の地方版を検索してみました。調べたのは、朝日、毎日、読売の3紙です。

 

まず、朝日新聞大阪版に、小さな記事ではありますが、当時の記事を発見することができました。

壁画除幕式の翌日である、1886年3月28日朝刊の記事です(除幕式等の日程は前回紹介した河野論文により明らかになりました)。しかし、もうひとつの入選作、「野崎まいり」(上野光司)については「昔の野崎参りのにぎわいを満開の桜を配してメルヘンタッチで描いている」との解説があるものの(あの絵、メルヘンタッチかな……?)、ねここんにゃくについては作者とタイトルを挙げるのみで全く触れられていません。記事タイトル(「野崎参りを壁画に」)がそもそもそうですし、写真にも「野崎まいり」の方しか写されておりません。ねここんにゃくは記者さんの理解を超えていたのでしょうか……。

(「野崎まいり」も素敵な絵ですけれど。具象画で分かりやすいので新聞記事としては取り上げやすかったのだと思います。)

 

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他の新聞では、少なくとも電子版で検索した限りでは、壁画についての記事を見つけることはできませんでした。うーん、意外に話題にされていないものなのですかね。大東市のニュースというのは、地方版でもややマイナーなニュースなのかもしれません。これが大阪市内のことならもっと話題になっていたのかなあ。

 

しかし、壁画についての記事は見当たりませんでしたが、読売新聞1992年9月5日夕刊に、「女のギャラリー ――正木純子野外展覧会 天川篇」という記事があるのを発見! 記事内容は電子版になかったため、紙の新聞で確認したところ、記事の中に「ねここんにゃく」の文字が……!

 

こちらは室井絵里さんによる展覧会のレポート。奈良県天河大弁財天社にて「幾千の月、水に浮べて」という正木純子さんの展覧会が開かれたようです。展覧会前の記事であるので写真などはありませんが、月見の神事に合わせて地上にロウソクで満月を作るというインスタレーションが紹介されており、それは「あちらの世界とこちらの世界をつなぐ通路」であり「癒しを積極的に開かれたものとしてとらえる転換の場の表現」と記事では書かれています。そして、

 

そういう作品づくりを彼女は「ねここんにゃくのまたたび」シリーズと呼ぶ。この言葉は彼女がセラピストとして働いている現場の子供がパニックに陥ったときに発した、言葉にならない叫びだ。作品は自分という心の旅から出てきたものでもある。

 

なんと! 「ねここんにゃく」の語は、正木さんの造語でなく、彼女がセラピーで接した子供の言葉だったのですね。

その子にとってはパニックを鎮めるためのお守り的な言葉だったのでしょうか? これ以上の記述はないので詳しいことは分かりませんが、この箇所を読み、自分が、ねここんにゃくに少しの不気味さを感じつつ異様に惹かれた理由が一気に分かったような気がして、ちょっと手が震えましたがな(マジで)。この感慨を言語化するのは難しいので今日のところは「手が震えた」という西野カナ的記述にとどめておきますが、最近、個人的に、創作と病理とか創作と癒しとかそうしたことについてぐるぐる考えることがあって、そこに刺戟を与えられたような感じになったのでした。何か、自分の原点のようなものに戻らされ、「そうだった、そこから始まってそこに惹かれたのだった」とピッとさせられたような(※これは自分のための備忘記述なのでよく分からなくてええです)。

 

さらに、とすれば、非言語の叫びであったねここんにゃくを、アーティストが受け取って作品として変形させ形作ったという意味で「ししそんぞん」なのかなあ、小さな子供の叫びであったねここんにゃくが、重要な護岸(大東市はかつて水害に見舞われることも多かったといいます――あの堤防は大事なものでありましょう)の高い壁に、あんなに大きくなって旅立ったということなのかなあ、とか、その言葉を発した子は正木さんの作品を見たのかな、どう思ったかな、とか、今どうしているのかなあ、とかいろいろ想像してしまいます。

 

記事はこの後、正木さんにおけるアートとセラピーの関係に触れて結ばれています。また展覧会では、音楽(慧奏)、ダンス(川西宏子、岸本律子)とのコラボレーションもあったとのこと。この年の9月11日の一日限り・雨天中止のイベントだったようですが、無事開催されたのでしょうか、どんな感じだったのか、他に記録があれば知りたいものです。ともあれ、少なくとも92年までは美術家として活動しておられたことが分かりました。「ねここんにゃくのまたたび」シリーズ、ということは、他にもねここんにゃく的なものたちが存在するのでしょうか。