「学部時代は、もうない」

【本日のひとこと】
google:「フロイト思想研究会」で検索するとこのブログが検索結果トップに出てくる現状に疑問を感じる今日この頃です。
(検索でおいでになった方には申し訳ありません、当ブログには上記研究会に関する重要情報はございません。犬アイコンの消滅に関しては、わたくしも非常に寂しく思っております。というわけで今日は、失われたものについて。)




先日ひさびさに文学部東館のあたりを散策しました。
変わり果てた京大において、ここらへんはわたしの学部生の頃とそう変わらず、不覚にも懐かしさを覚えました。喫煙所が指定されているのは、新しいですが。
友達がいないので一人でうろうろしていた思い出、ゼミで指名されるのがいやなのでサボろうと教室を出たところ教官に遭ってしまい連れ戻された思い出、などなど、ろくでもない思い出の数々が走馬灯のように駆け巡りました。









どこもかしこも妙に小ぎれいになってしまった構内にあって、「今は亡き京大」的なこの光景に思わず「ほっ」としてしまったじぶんを発見していやんなりました。

だが、たとえばべつに頼んだわけでもないのに勝手に小ぎれいにしておいて 「きれいになったんだからビラ貼るな」 などとのたまう、嗚呼これが、環境管理型けんりょく!環境管理型けんりょく! と叫びたくなることの多い昨今、この小汚さは貴重ではと。
かつてはこうした雑多な空間が至る所にあったというのに、ここ数年、急速に雑多なものが消えているのはさみしいものです。
といってもその雑多なもののせいで窮屈に感じる人もあるであろうわけで、みんしゅしゅぎというのんは難しいですね。よう考えてみればわたしも学部生時代、自治会室とかなんとかボックスとかの学生ぽいノリが苦手やったのでした。

そう、冷静に考えてみれば昔の京大とて多少今より小汚いだけでそんなに何かがすばらしかったわけでもなく、また自分自身はといえば当時も全然適応出来ていなかったわけですが、失われたものがよいものであったように思われてしまうちうのんは老化への一歩なのでしょう。
ほんとうは、しょぼい大学への愛憎(「しょぼい」は「大学」でなく「愛憎」を修飾しています、為念)なんぞに捕われている場合でなく、さっさとどこかへ発ってゆくがよいのですが。
といいつつ、オールドタイプな「京大」的なものを見つけるとついつい「ほっ」としてしまう自分のオールドタイプぶりが心配です。或いは、マクドナルドの椅子で熟睡せよ!ってことです。まめまめ。