福満祭中継 (女は存在しない、犬は存在する)


さいきん、楳図祭に併行して、福満しげゆき祭をひとり小規模に続けています。
福満しげゆきは、情けない男子の鬱屈したリビドーを絶妙に描く漫画家です。


初めて知ったのは、例によって、一時期2ちゃんねるに大量に貼られていた「大学構内でひとりぼっち画像」によってだったと思います。
そのしばらく後、けんきうしつの先輩から、
「ぬらたさんは、関節などが福満しげゆきの描く妻の図に似ているように思う」(大意)
と言われ、読んでみよう!と思い立ったのでした。



妻の図



たしかに、脚の形が似てなくもなくも…




最初はやはり『僕の小規模な失敗』(2005年刊)から。初読時の印象はいまいちだったのですが、何度も読み返すうちに(何度も読み返すな)じわじわ侵食され、そして遡って読んだファースト作品集『まだ旅立ってもいないのに』(2003年刊)で、「好きだ!」(福満風)と思ったのでした。
自意識パラダイスなその作品群は、30歳にもなれば「青いねェ」とかいって鼻で笑いながら読むべきものなのかもしれませんが、そんなことはしません。むしろ全国の自意識なかまたちに全力でオススメしたい気持でイッパイです。台詞・絵・オチなどいろいろ絶妙で、その描線は時折、山田花子(夭折した漫画家)を思わせます。
随所に登場する覆面犬が好きなのですが、セカンド作品集『カワイコちゃんを2度見る』(同年刊)では、更に覆面犬がフィーチャーされていてうれしく思いました。



↓この場面が好きです。



犬をこすりつけてくる! (「僕の宗教に入れよ」)




その他、不遇時代に描かれたエロ漫画を集めた『やっぱり心の旅だよ』(2007年)。エロ漫画の筈なのですが、多くのレビューでは判で押したように「実用性はありません」と評されているのが笑えます。オチがステキな「超能力青年Zと物体X」が好きなのですが、なんぼ太田出版とはいえ、いちばん盛り上がるべき場面(注:射精)でこんなに盛り下がり、「射精後のすさまじい罪悪感…」とかぶつぶつ言うてるエロ漫画など、いったい誰が喜ぶというのでしょう。わたしは喜びます。
あと、蛇足なんですが、わたしは昔から男性の言う「好きだ!」の意味がよく分からんかったのですが、福満漫画の男子たちが唐突に言う「好きだ!」のおかげで、なんかちょっと分かった気もします。べんきょうになります。


そして目下連載中らしい『僕の小規模な生活』『うちの妻ってどうでしょう』も、それぞれ1巻を読みました。
こちらはエッセイ漫画で、『小規模な失敗』から少し年をとった「僕」は、ナイーブな少年の面影は消えてしまっていますが、器の小ささはそのままでほっとしました。
また、わたしに関節が似ているという「妻」さんがたくさん登場します。
『小規模な失敗』に出てきた「彼女」と同一人物なのですが、わけのわからん女の子だった「彼女」時代と較べて「妻」はいくぶん人間らしく描かれていますね。女の子も若いうちはヒステリであらねばならんくて大変なのぢゃよ、と思ったりしました。



それにしても、ガロ系作品・エロ漫画・エッセイ漫画とどれをとっても、福満作品に現れる女性像は皆ふやふやと掴みがたく、主人公男子たちの自意識が過剰なまでにみっちり語られるに反し、彼女らには内面とか自我とかがすっぽり抜け落ちているふうなのをふしぎに感じていたのですが、エッセイ漫画での「性欲の対象」と「男尊女卑」についての述懐によって、なんとなくその一端を理解できたように思いました。
ですが性欲の対象たるべきわれわれ(わたし)も、実際はキモチワルク妄想したり電話を待ったり中野の下見をしたりしているわけであり、したがって当然福満作品を読むときは自意識過剰な「僕」の視点に立って「僕」の視点からカワイコちゃんを眼差したりしているわけであって、嗚呼異性愛者とは女を愛するものなのであるなあ(by羅漢)としみじみです。そのとき純粋に対象であるところの「女」は存在しないわけであって、だから福満作品の女の子たちは、皆存在しない「女」の具現です。


ところで『小規模な生活』では、「僕」がポチを愛していたことも分かってほっとしました。
『小規模な失敗』は前述の通り何度も読み返していますが、ポチが死ぬ二頁だけは辛くてなかなか直視できません。
ポチ………



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