夏草の中の連絡まつ村とマタワレ感試論

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先日、淀川沿いを歩きました。

淀川から梅田方面を望んだ写真ですが、緑の向こうに聳えるゴン太がなんともいえませんね。

 

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と、それはいいのですが、土手の上から道路へと橋を渡ろうとしたとき、橋の柵に人の顔が浮き上がっているのを見つけたのでした。

 

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なんだこのおじいさん……と思ったら、その下にも一枚。

文字も添えられています。「生きてれば」

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ステッカーのようですが夜に遭遇したら不気味かもしれません。

ここではっとしたのですが、これは10年ほど前に天王寺界隈で遭遇した「連絡まつ村」の亜種ではあるまいか?

下は2009年、天王寺で撮った写真なのですが、一心寺を見た帰り、通りの電柱や壁にこの小さな貼り紙を見つけたのです。それが、なんとも不気味で印象的であったのでした。一瞬、普通にときどきある尋ね人の貼り紙かな?と思ったのですが、それにしては、その人の名前も連絡先も書かれていません。妙に生々しいポートレイトと「連絡待つ」の文字だけ。

 

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(2009年撮影)

 

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(同日、剥がれかけた連絡まつ村)

 

 

この後、ネットを見ると、このおじさんの貼り紙には各種バリエーションがあり、そこに書かれている文言のパターンのひとつから「連絡まつ村」と呼ばれていることが分かりました。しばらく忘れていましたが、今回のコレも、連絡まつ村ではあるまいか?と思って調べてみると、ネットでは既に話題になっていまして、それによると、2010年頃鶴橋~天王寺地域で猛威を奮った連絡まつ村は、昨今北上し、淀川近辺で発見されるようになったとのこと。私が出会った以外にもバリエーションは豊富なようです。

 

おおお…… この写真の人、かつての連絡まつ村と同一人物なのでしょうか。10年分年をとった連絡まつ村?

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しかし、この、なんというか、日常の空間に不穏な裂け目のように現れる独特の不気味さ、なんなのでしょうね。ふつーにストリートアート的なものの一種なのかもしれませんが、連絡まつ村には何か独特の不気味さがあり、私はそうした感じを「マタワレ感」と呼んでいます。マタワレが分からない人はトミダノマタワレで検索していただきたいのですが、それが良趣味か悪趣味か、アートなのかどうなのか、とかいうことは措いておいて、私は昔から、どうしてもマタワレ的なものに、怖れやイヤさを感じつつ惹きつけられてしまいます。マタワレ感の特徴は、誰が何のために行っているのか分からない、という不気味さでしょうか。

また、私の勝手な分類によると、負のマタワレ感と正のマタワレ感があります。といってもマタワレ感自体が既に負である気もするので不毛な分類ではありますし、まあ端的に「私が嫌いなマタワレ感と好きなマタワレ感」くらいの意味だと思ってほしいのですが、ここで負のマタワレ感というのは、たとえば分かりやすい例としては誰がなぜそこまでの情熱を燃やしているのか分からない、ネット上で誰かを中傷するサイトだとか、因習や差別的なものと結びついたようなマタワレ感のこと、対して正のマタワレ感というのは、昇華されたマタワレ感とでもいいましょうか(昇華されたマタワレ感の最大の例として挙げるとするなら車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂』の書き出しの一節)、しかしこの二分法も微妙なところであって、もともとのトミダノマタワレ自体がその狭間に属していますし、そもそも狭間感自体がマタワレ感なのか、という気もしないでもありません。そして顔を覆う指の隙間から覗き見てしまうようなその狭間に存在するのは、「猥褻」です。