楽園今昔

少し前、友人を、「五條楽園」へ案内しました。
ひさしぶりに訪れたところ、かなり廃墟度が高まっており驚きましたので、写真など載せておきます。


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その前に、五條楽園について、少し。

わたしがその楽園の存在を知ったのはずいぶん遅く、大学生になった頃でした。
五条を下った高瀬川沿いをぷらぷらと散歩していたとき、背後で キキーッ とタクシーが停まり、戸を開けて飛び出してきたおじいさんに、突然ガッと肩を掴まれたのです。

  「 ヤチヨさんか!? あんた、ヤチヨさんやな!?」

ものすごく歯の黄色いおじいさんでした。
肩に食い込むおじいさんの指、ぎらぎらと輝くおじいさんの瞳……何事なのか理解できぬわたしは、「ちゃうちゃうヤチヨさんちゃいます」と首を振るのみ。
そこへタクシーの運転手さんがおじいさんを羽交い絞め、

  「おじいさん、その人は違う! もうヤチヨさんなんかおらへんのやで!」

  「ヤチヨさんはここにおったんやー!!ヤチヨさんは何処に行ったんやー!!」


おじいさんは、そう叫びながら引きずられていきました。わたしはその背を呆然と見送るのみ。
映画の一幕のような出来事でありました……。
親から、「あのへんは五條楽園というて、昔遊郭があったらしい」 と聞いたのはその後でした。


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なるほど。おじいさんは、かつて赤線で出会った八千代さん(仮)の面影を探してあの町を彷徨していたのね……
と分かったものの、五條楽園の名は、わたしに奇妙な印象を与えたのでした。

まず、その楽園は、我が家から程近くにあるにも関わらず、これまでその存在を知らなかった!
いわれてみればその入口には「五條楽園」と書かれたネオン(というには地味過ぎだが)があるのに、これまでまったく気づかなかったのでした。
隠蔽されていたかのように、その楽園の話をそれまで誰からも聞いたことがなかったのです。
親も「昔遊郭があったらしい」以上の情報は知らない様子でした。


同じ、旧遊郭であっても、たとえば島原は観光地化されて保存されています。また、旧遊郭には、現役の風俗街に発展しているところもありますが、そういった街は、派手なネオンが点っていたり目立つ服装の女性が出勤する様子が見られたりと、教えられなくても 「ここは歓楽街だな」と分かる。が、五條楽園はそのどちらでもなかったのでした。
現役でもないし完全に機能停止してるわけではなく、さびれてはいるがひっそり活動しているようだ(がよくわからない)、という曖昧な感じ。
夜になると、紫の明かりが点り、着物を着た女性(といってもおばあさん)たちが「お茶屋」の表に立ち始めるのですが、「お茶屋」の中で何が行なわれているかは分からない。
で、それはなんか隠微で秘密めいた感じ。


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で、当時大学で課されたレポートのテーマとして、五條楽園のことを調べよう!と思い立ったのでしたが(注:「セクシュアリティと日本の近代」みたいなテーマやった)、文献がなかなか見つからんかったのを覚えています。
そのとき調べたことをまとめておきます。


・ 五條楽園とは、かつての 「七条新地遊郭」 と 「五條橋下(六条新地)遊郭」 が合併したもの。
  ・ 七条新地は、1706-12年に開発されたもので、1790年に「島原出稼地」と認められた。
  ・ 五條橋下は、七条新地の北側に江戸中期に開発。1867年、独立した遊里となる。
・ 明治以降、七条新地の正面通り以南(つまり今の五條楽園以南)は廃れ、二つの遊郭は事実上合併。
・ 大正に、「七条橋下(通称:橋下)」 として京都最大級の遊郭となった。
・ 戦後、昭和33年の売春防止法施行により、七条橋下は娼妓の街から芸妓一本化され、これにともない「五條楽園」と改称。


しかし、芸妓の町になったとはいえ、実質的には五條楽園は、売春が行なわれているところとして一般に認知されていたようです。
昭和48年に京都新聞に連載された「花街史」によると、当時の五條楽園は「旧七新」のイメージから脱しようと奮闘し、舞・花・茶に力を入れ始めたました。(五條楽園には今でもちゃんと歌舞練場があります。設立は大正年間。)
しかし、「七新のイメージで踊りをろくろく見ず飲んで騒ぐ客」が多く、週刊誌取材が「疑いの目」でやってくる、と楽園側の人びとはこぼしています。「昔のイメージで訪ねてくる人はお断り」「その人が期待しやはるようなことがあるんやったら、(売春防止法が施行された現在では―引用者註)五条楽園は存在しやしまへん」。 しかし、彼女らはそれに続けてこう言います。
「けど、恋愛は自由ですから」

大陸書房刊『京の花街』(97年)にもこのような記述があります。
「廓のなかに<旅館組合>があって二十軒が営業しているので、お茶屋から旅館へと"座敷"を移すことも可能だし、恋愛は自由だから、ここで"愛"が生まれても干渉はされない。」 (「"恋愛"自由の五条楽園」より)


つまり、「自由恋愛」というタテマエで売春が行なわれていたのであり、これが、五條楽園がその後メジャーになりきれず隠微なものであり続ける理由であったのでしょう。
当時(2000年頃)は、ネット上の情報も少なかったのですが、「五條楽園」で検索するとアングラ的な口コミ風俗情報BBSなどがいくつかひっかかりました。 「そこはソープじゃないんです。大阪の飛田新地みたいなことです。単にやるだけのとこです」「噂のちょんの間があるらしい」「一発一万ちょい、ただし30分」「40分で2万円くらい、明確な定価はないみたい」「一泊5万」「避妊無しOKの子がいる」etc...
いずれも、明らかに「売春ができるところ」という認識でした。またフィリピン人などの外国人女性を使っているという情報も見られました。

 
今では、ネット上の情報も増え、wikipediaにも「五条楽園」の項目ができていますね。
しかし、こうしたネットでの情報が仇となってか、昨年秋に大掛かりな「摘発」が行なわれたのでした。
おそらく、それまでは見てみぬふりで放置されてきたのが、有名になってしまったがために、警察が手をいれざるをえなくなったのではないかと思われます。摘発の様子は、「警察24時」かなんかその手の番組でも中継されたとか。wikiにも少し経緯が書かれていますね。


今回、摘発以来初めて五條楽園を歩いていたのですが、ずいぶん様変わりしていて驚きました。
以前は、ひっそりながらも営業している気配があったお茶屋さんたちは、どれも戸を閉ざしほぼ廃墟化していました。








おそらく一番大きいお茶屋さんだと思われる「三友楼」も。





その一方で、五條楽園独特の建築や装飾は健在でした。


このように、銭湯のタイルのようなものが、建物の外壁に使われているのが特徴です。




この装飾はアートっぽい!
かっこいいですね。
オレンジが前衛的。右上には、銭湯で湯を吐いているライオンのようなものが。




瓦屋根には、このようなものが各種ついています。
鐘馗さんの一種でしょうか。
これは凛々しいですが、マヌケなやつもいました。





カラフルなステンドグラス。ステンドグラスも五條楽園の特徴です。
ここはかつてお茶屋さんだったのでしょうが、「ヒーリングサロン」なるものとして再生させられていました。
このように、建築をそのまま利用した謎の店もいくつか出来ていました。










こちらはすっかり廃墟化した建物。








歌舞練場の横には皮肉な標語。









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京都市としては、戸を閉ざしたお茶屋たちをこのまま放置しておくのか、「町家再生」みたいな感じでクリーンな観光地化したいのか、どうするつもりなんでしょうか。
なお、ここから下は、2003年に撮影した写真です。





お分かりでしょうか? お茶屋さんの戸が少しだけ開いています。
建物の中は撮れていませんが、当時、どのお茶屋さんもその戸の中を覗くと、赤い絨毯の敷かれた玄関に、金魚が泳ぐ水槽が置かれていました。(金魚は五條楽園のトレードマークらしいです。五條楽園の入口にはアート系の人に人気のお洒落カフェ「efish」がありますが、この「fish」は楽園の金魚を意味しているそうです。)

この桜は、春になると高瀬川に咲き誇って綺麗。




ステンドグラス。これは今でもあるのかも知れませんが、今回訪れたときは見つけられませんでした。
(五條楽園内は、碁盤の目の都市とは思えぬ迷路のような入り組み方です。)











楽園の南端・北端にはそれぞれ看板が出ていました。
南端(下の写真)の看板の向かい側の店がefishです。








♪ 旦那はん おいでやす 芸者ワルツでステップか 五條楽園
♪ 花えくぼ  柳並木とぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋の道
 (「五条小唄」、前掲 『京の花街』より)


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現在は、看板はいずれも撤去されています。
(現在の様子、上の南端の写真と同じ場所で撮影。)