器官だらけの身体 (ふるふるについて再び)

【近況】
この一週間、地味にいろんなことがあり、疲弊しました。
箇条書きにしてみますと、

ソニータイマーの稼動を確認
・ 事務所の移転
・ 英語でのナンパ
・ 歴史と階級意識 vs 帝国
・ 8年秘めていた思いをあっさり言語化ののち虚脱
・ 美女と話し緊張のあまり口の中を切る
・ T氏オススメ鳥肝ねぎごま油うまー!!!
・ 犬自慢大会@メキシコ
・ しょうもない小競り合いと真摯な思考と憤死

などでしょうか。
電話サポート一回につき2100円巻き上げるなんて! 相談もしない先からクレジット番号聞き出すなんて! 苛々! モウ次回はソニーは買いません!

     


さて、そんな年末ですが、愉快だったこととしては、ナメちゃんと忘年ナメ会を開きました。
鬱企業のバブルイルミネーションを観て80年代ごっこをし、その後、ファミレスでセキンタニ鑑賞会を開きました。
鑑賞会の後は、さっき食べたばかりであるにもかかわらず、なんや消耗してスッカリおなかがすいてしまい、をを、セキンタニダイエット! と感嘆&疲労したのでした。


話は少し前に遡りますが、秋頃、わたしとナメちゃんは「サブカルギャラリー&書店」めぐりをしたのです。
ナメちゃんはギャラリーの人とサブカル話で盛り上がり、「みうらじゅんはうちにとってはGODです!」と興奮するなどしてトバしてました。わたしは、ナメちゃんがいなければ人と会話を交わすことなどありません。(アート系の人に劣等感があるため、ひとりでギャラリーとか行ってもさっさと退出するのです。)
ナメちゃんは、「自意識(と屈託)の無いサブカル少女」という世にも珍しい生き物で、その点にわたしは大いなる畏敬の念を抱いておるのです。
つまり、サブカル少女にありがちな、「こんなものが好きな私ってちょっと変わり者」みたいな自意識がなく、ただ単に、ナチュラルに、変わり者です。
一方のわたくしめは、「サブカル少女的自意識はありあまるほどあるが更に過剰な自意識によってその発露を抑圧」型であるので、ちょうどナメちゃんと対極なのだとおもいます。ちなみに既に「少女」ではなかろうというツッコミはナシです。文学少女サブカル少女とロック少女はいくつであっても少女なのです。(ヤオイ少女も、ですかな?)







話が脇に逸れましたが―― しかしナメちゃんという逸材を世に知らしめることがわたしの使命のひとつであるので仕方のないことです ――、その際めぐった書店で、『うるし部』や『トルコ星座の男たち』に混じってわれわれは、SEKITANI という人の画集『sexoide』を発見したのでした。
しばし立ち読みしたわれわれは、そのしばしの間にすっかり目と頭がちかちかしてしまい、「うわわわっ」とか叫びながら、ふるふるとオムライス屋に走ったのでした (注:エネルギを消耗したためおなかがすいた)。


帰宅してネットで調べたところ、SEKITANI氏はセキンタニという名義で製作活動をしておられ、ホームページもお持ちだということが分かりました。(同い年ということも分かりました。)
セキンタニ・ラ・ノリヒロ公式サイト:鬼

サイトを見れば分かりますが、セキンタニ氏の作品はコラージュ作品で、主に人体を扱ったものです。
人体のパーツが変形させられていたり、他のパーツと置換されたり、他のものと連接されたり、或るパーツが増殖したり消失したり、外部と内部が反転したり、しています。
サイトによると、作品集は二冊出ていて、前述の『sexoide』と『OBAKE』。
このうち、『OBAKE』の方を、タコシェ通販で購入してみました。
(『sexoide』が欲しかったのだが、こちらのほうがお手ごろ価格だったので。。)
同時に『Japon Parano』というオムニバス作品集も購入。こちらは根本敬市場大介(この人の文字新作系作品もふるふる誘発源)らの作品も収録されています。
いずれもフランスの出版社: le dernier cri からの刊行。さすがフランス人(変態)!

タコシェブログ:『sexoide』と『OBAKE』の紹介


で、これらをサカナにセキンタニ祭@ファミレス を開いたわけですが、鑑賞終わって感想を語り合い、面白かったことは、ナメちゃんとわたしでふるふるのツボが異なることでした。
わたしは、脂肪のようなものがぶくぶく膨張している作品にふるふるし、ナメちゃんは、人体の中に細かな管のようなものがびっしり詰まっている作品にふるふるしていました。
果たして、「生理的嫌悪感とは何に由来するのか」(別題「なぜ蓮コラは怖いのか」)、更に「恐怖とは何か」という議題になり、幼少期のトラウマ強迫観念などを語り合い、寒い日にわれわれは更に鳥肌立てたのでした。こうして非常に充実した議論を以て、ナメ2009は幕を下ろしました。







さて、そのとき話したことをもとにして、ちょっと考えたことを書いてみます。
思うに、わたしの生活は、だいたい三つの領界に分けられます。ぬらた三界に家ありというわけです。いや、わたしにいくつ家があろうが多くの人にとってはどうでもいいことと思いますが、じぶんのブログなのでじぶん語りをさせていただく次第であります。


ひとつめは、まあ日常とでもいいますか、たべたりはたらいたりこたつで寝たり犬のおさんぽをしたり、といった世界です。色々ありますが、基本的にはほのぼのしています。このブログの記述の殆どは、この領域内でのことです。この領域を仮に、「想」とでもしておきましょう。(あくまで仮にであって、Lacan-Ogasawara用語とは無関係です。)
ふたつめは、仮に「徴」とでもしておきましょうか。「想」が社会(しほんしゅぎ社会)の中での日常である以上、それの運営の際にストレスや憤りや疑問その他が生じないではなく、それらについて考えるとき私は「徴」モードに入ります。多少病っぽくなったり論文を書いたりするときには、このモードです。このモードは、言語(特に書き言葉)とよく関わっています。
(以前の発狂ブログはこのモードで書いていました。以前のと較べて当ブログがしょーもない、以前のよーなのを書け、というご意見をたまにいただきまして、尤もだと思いますが、書いている世界が違うのでしょーがないのです。網上で発狂するのはモウ疲れますた。以前のよーなのは家で日記帳に書いとります。)


そして、このふたつを現実原理のもとにある領域とすると、もうひとつは、一種超越的なところにある世界です。これを「実」……じゃイマイチなので、仮に「アート」とでもしておきましょう。
「アート」はなんでもアリの世界です。というか、わたしの中で「アート」の定義は、なんでもアリであることです。耽美、とか猟奇、とかいう価値観(?)もここにあります。内臓露出上等、流血カモン!です。

先日ナメちゃんと語って思ったのは、恐怖・ホラーの類とはわれわれにとって、自分の身体の物質性をまざまざ突きつけるものを指すのだな、ということでした。
たとえば、自分が自分でないものに変形してしまう恐怖を描き、人間はどこまで人間か? という問いをつきつけてくる楳図作品然り。そこでは日常のほのぼのも、書き言葉の確実さも、とつぜん瓦解します。

で、セキンタニがアート業界でどう評価されてるんかよくわかりませんが、自分の身体が自分でないものに変形する恐怖、自分はどこまで自分か?という不安を喚起する点で、自分の中の「アートっぽいもの」の類型であるな、とおもったのでした。(喚起の仕方があまりにも直截的であり、生理的感覚に訴えかけてくる点が安直、という向きもあるかと思いますが、げいじゅつとしての「アート」のことはよくわからんので。)


そしていつもふしぎにおもうのは、自分の身体が物質に過ぎないということは恐怖であり、実に散文的な事実であるのに、それについて思いを馳せることが、宗教(超越的なもの)に近い効果を持っていることです。「アート」界もまた「徴」より深い水準で病の種でありますが、同時に病の治癒に奉仕するものでもあって、これがないと自分が自分である気がしないのです。であるからしてわれわれは、セキンタニ作品を見て、嫌悪感を感じふるふるしつつもなんかほっとして、「芸術は心の栄養だ!」とか盛り上がったのでありました。
(以前、けんきうしつの或る後輩が自作グロ小説を見せてくれたときも、「なんかなごむ」と思ったのですが、そういうわけなのでしょう。)
(以前に「これだけ怖い現実の中で、なぜホラーを見る必要があるのか?」と訊かれたことがありましたが、そういうことなのだと思います。刺激を求めているのでなく、同時に慰安のようなものも求めているという。。)

だが、もしそうしたホラー的世界が単純に現実に移植されれば、どうか、と。何らかの人為的或いは自然的暴力によって自分の身体が物質に還元されようとするとき、ほのぼのとした日常は脅かされますし、言語を使うものとしてわたしはそうした暴力に断固抵抗せねばなりません。にもかかわらず、この世界に癒される、ばかりか、この世界がなくては自分が自分である気がしない、というのはどういうことか、と。


このことは依然謎であって、「エログロだって幻想だったらいいんじゃん」とかいう話でもないようです。更に、「現実と幻想を区別できてたらいいんじゃん」だとか、単純な"ポルノグラフィは犯罪の抑止になる"論みたいなことを言う気にはもちろんならんのです。
(といったからといってべつにここで「ポルノグラフィ(あるいはホラー)は犯罪を誘発するから規制しろ」とか主張したいわけではぜんぜんありません。ただ、ポルノ=犯罪抑止論に関しては、そんなにあっさりと幻想――それを幻想と呼ぶなら――の力を見くびっていいのか? とは思います。幻想の力というのは、幻想を実現化しようとする力、という単純な意味ではありませんですよ念の為)(第一ここではべつにポルノの話をしたかったのではなかったのだった……。)


なんか話が逸れてはからずもポルノ論になってしまいかけましたが、性というテーマはたしかにこの話と密接に関わっておって、性(セクシュアリティ)、殊にサド=マゾヒズムに関するそれ、がじぶんにとって重要なテーマであるというのは、それがその上述三界の結節点にあるものであるからかな、と思ったのでした。ちうわけで、メリー・クリスマス。