さいきんのなやみ(2) 悪文について

【本日の業績】
クリスマスの飾りつけをしたよ

しかしわたしは不器用でした。
右図のみごとなトナカイは、わたしの作ではありませぬ。


    


そんなわけで悪文の話のつづきを書こうと思っていたのですが、考えるだけでつかれてきたため別の話を書きます。

なんちうか、うちもそろそろ家庭について考える年頃になりますた。

……こっちのほうが疲れそうなので、これは次回に回すとして、やはり悪文のことを書きます。


エー、わたしはもうずいぶんと前から、悪文を読んだりなんとかしたりする、というしごとをしておるのですが、未だにいちいちふるふるするのが困ったことです。
まず、「ふるふる」について説明しておくと、ふるふるというのは、一種の神経昂奮状態を表すぬらた語です。
ふるふる時には体温が上がり、目が見開かれ、そわそわうごきます。生理前軽躁期・カフェイン過剰摂取時・なにかに衝撃を受けたとき(例:すごい絵を見た)などによくなる状態です。


悪文というてもいろいろな種類がありまして、多少文法的におかしい程度のもの・文法的には問題ないが論理構成に破綻があるもの・文法的にも論理的にも稚拙なもの……とまあ色々あるのですが、わたしのよく目にする平均的な悪文は、まあこんな感じです。

「僕はこないだ、お年寄りに席を譲らない人がいました。(←主語述語の不対応)
 僕は思ったことは、席を譲らないのはよくないと思った。(←「思った」の重複・敬体と常体の混合)
 その理由は、席を譲らないのは、お年寄りが困ります。(←主語述語の不対応)
 最近の若者は人を思いやる心を忘れていると思います。(←無根拠な決め付け&妙にえらそう)
 でも、そんなこともありません。(←一貫しない主張)
 がんばって、よい世の中にしたいです。(←明らかに適当な結論)


と、こんな感じでしょうか。これがわたしの読む、スタンダードな悪文です。この時点で既に、ちょっとふるっとするわけですが。
しかし或る日のこと、これを更に50回ハンマーで叩きつぶしたような、最強の悪文が束になってやってきたときの衝撃は忘られません。
その日の悪文というのはモウ、論理的にも文法的にも解体されきった、いやモウ論理とか文法とかいうレヴェルでなく、なんちうかもう!なんちうかもう! これは 文章 なのか? 一文たりとも意味も意義も取れない! というようなもの、でも所謂「デンパ」ではなく、おそらく普通の精神状態で書かれたであろうものどもでした。
とにかく、壊滅的な悪文だったのです。
その悪文の束を受け取った日、わたしは極度のふるふる状態に陥り、寝ようとしても目が冴えて、ついに朝まで一睡もできんかったのでした。


あの体験は一体なんだったのだ?
今でも不思議に思い返します。
またこのときほどの甚大なダメージではなけれども、その後も度々、悪文のせいでふるふるを発症してきました。
「悪文を読む→昂奮して寝られない」
その因果関係は如何に?


わたしはべつに、さほど言葉に潔癖なほうでなく、ら抜き言葉など文法的に間違ったとされる表現も、普段特に気になりません。なので、「ああっ、言葉の乱れっ」って感じでふるふるなるわけではないのです。
意味がとれない!何が言いたいのかわからない! というところが、不穏な気持ちにさせるんでしょうか。でも、意味のとれない外国語を聞いたって、べつにふるふるしません。

逆に(本来分かるはずの)日本語にもかかわらず、ってとこがネックなんでしょうか。
或いは、書き言葉であるにもかかわらず、ってとこが―――すなわちわたしは、話し言葉が苦手なもので、昔から常に書き言葉を話し言葉よりコミュニケーションツールとして上位に置いてきたのですが、にもかかわらず、この人たちとはその書き言葉でコミュニケートすることすらできひんのか! という、なんかそういう、じぶんの常識的世界が切り崩されてゆくような感覚?
っていうか、この人たちはこれを、コミュニケーション手段として使っていないんだ!というカルチャーショック?
人が便利な道具を持っているのに、それを無駄に使ったり変な使い方をしてたりしてたら、「アアアッ違うッ、モヤモヤモヤ」となるじゃないですか、そんな感じ?
かといってやはり、それらが「ふるふる」という身体症状を招く直接の理由は説明されず、ですよね。うぐむうぐむ。


思うに、すごい絵ふるふるの際と同様に、どうも悪文というものには、それ自体のもつなんぞプリミティヴなパワーがあり、それによってふるふるさせられている気もしないでもありません。(それは「圧倒的に自己愛的な人」に対して感じるパワーにも似ているように思います……と書いて気がついたんですが、悪文の特徴のひとつは、それだけで自足し完結しているように見える点かもしれん。)
我が悪文ふるふる現象のカウンセラー(文字通りの意味での)たる所長は、悪文の効果を「田舎の汲み取り式便所」の持つ怖さに喩えておられましたが、言い得て妙とおもいます。
ですが、何がそんなにプリミティヴなのか、は、やはり上手く説明できないなア………。

結局、「なんだかわからない」という話でした。

  


なんやえらそうに悪文悪文いいましたが、わたしの文章も、そこまでの破綻は来たしていない(と願っている)とはいえ、どちらかいうと悪文の範疇に分類されるであろうとは思います。
本人の気付いていないであろう慣用句の誤用などを除外しても、主語述語の対応がまずい、一文がだらだら異様に長い、語順が苦しい、などなど。なんとかしたいんですがね。

ただひとつ弁解しておきたいのは、わたしがよくやってしまう文法破壊として、無駄な「それは」の濫用というのがあるのですが、あれだけは、わざとやっておるのです! なので、添削せんでください!
つまり、対応する述語のない「それは」を濫造し、挿入句的に文中に入れてしまう、という癖があるんでして、「私はケーキを買った、それは、今日はクリスマスなのだ」とか。しごとであれば添削せねばならないところであって、「それは」をトルか又は語尾を「クリスマスだからだ」と「それは〜からだ」でしめるかするのですが、どーかどーか、あれは意識的なのです!
さらにいうなら、「今のちょっと深沢七郎ぽくね?」と思いながらやっておりますので、そのへんよろしくお願いいたします。