さいきんのなやみ(1)

【最近の業績】
しょぼい権力のしょぼい行使の果ての分断統治下で、私はふわ丸の布教に成功するという、しょぼい業績を挙げました。ふわっと溶ける的な味わいでござるな! 形容詞は、形溶詞です。


ところで本日は、最近のなやんでいることについて、書きたいとおもいます。


1.強迫観念各種
まず、この頃の強迫観念について。
強迫観念というのは、不合理と分かっていながらなぜか頭に浮かんでしまう考え、とでもいうようなものですが、我の中では、周期的にいろいろな強迫観念が流行ります。
そしてこの頃流行っているのは「惨事想定強迫」「トイレのドアは存在しない」のふたつです。


・惨事想定
その名のとおり、何かするたびにいちいち惨事が想定されてしまう癖です。

たとえばセルフ・サーヴィスの食堂にて。飲食物をトレイに載せて席まで運びます。そうしながら、うっかりどこかに躓いてすってん、商品を床にぶちまけ、器がガッチャーン! という過程がありありと思い描かれてしまい、「アアアアッ!」となります。思い描く、と申しましたが、思い描こうとして思い描くのでなく、気付けば自動的に脳内にそうした想定が展開されてしまっておるわけです。イッツオートマティッ、です。

また、食器店で。高そうなグラスやカップが陳列された棚の前なんかを通るとき、 「荷物をうっかりひっかけてこれらが将棋倒しにガチャガチャガチャーン!となってあわわわ……棚の食器が全部砕け散って粉々になったガラスが床一面アアアアアッ!」 という過程が、やはり自動的に脳内に展開されます。
あるいは、踏み切りにて。踏み切りを眺めているうちにいつしか、 「なんかの拍子によろけてしまい踏み切りの中に倒れ込んでその瞬間電車が走ってきて脳みそがべしゃっ内臓がアアアアッ!」 という想像が始まってしまっています。

これらのイメージ自体にはべつにそこまで悩まされていないのでいいのですが、困るのは、この「アアアアッ」のところで実際に「アアアアッ」と声が出てしまうことです。つまり、強迫観念に付随したミソりです。この「アアアアッ」のせいで何度か不審がられてしまいました。まあ不審なのだが。


・トイレのドア
これはなんなんですかね。
出先(飲食店とか駅とか)でトイレに入りますよね。
そして便座に座っていると、なぜか、「今、この個室のドアは閉まっていると思っているけど、このドアは本当は存在しないものだ……」という想念がやはり自動的に浮かびます。つまり、本当はドアは無くて、こうして便座に座っているのんが実際は皆から丸見えなのだわ…、という感覚であります。
ですが、「そういう感覚がするだけであって」ということは一応分かっているので、それによって排泄できなくなるとか外でトイレに行けないとかいうこともなく、これもべつに、だからどうなんだ、という程度の話です。

思へばわたしは幼い頃、「トイレのドアを閉めるのが怖い」という恐怖症があったので、そこらへんに起源があるんでないかとおもひます。
ドアを開けたままでないとトイレに入れなかったため、幼稚園で「せんせー、おしっこいきたい」と言うと、先生が他の児童の中から「ぬらたさんのトイレのドア持ち係」を選出してくれるのです。そして、その子についてきてもらい、閉まらないようドアを押さえてもらいながら用を足していたものです。。


あと、強迫観念というほどではないのですが、以前から、新しい何かを買うときに必ず辿らなくてはならない思考プロセスというのがあって、これも昨今ますます強迫じみておるのです。
たとえば、来年のための手帳かなんかを買うとき、

「もし来年までに死んでしまったら、この手帳代がもったいないなぁ」
 ↓
「でもそもそも、来年までに死ぬなら、そんなにお金が必要なこともないだろうし、『あの手帳代があれば…!』とか後悔する機会もないだろう」

「よって、この手帳を買って来年までに死んだとしても、損失にはならないといえる」
 ↓
「買おう」


という思考プロセスをいちいち踏まなくては、レジに持っていくことができません。なんか変な心理療法かせいしんぶんせきとかすすめられたらいやなのでこのへんにしときます。わたしは基本健康です。



2.悪文ふるふる現象
以上強迫観念(のようなもの)については、とはいえさほど悩んでいるわけでもないのですが、むしろ困っているのは、「悪文ふるふる現象」です。こっちは己の脆弱性にしんじつ辟易しとるのです。むしろこちらをせいしんぶんせきしていただきたいものです。

と、悪文ふるふる現象について書こうとしたのですが、長くなってきたのでこれについてはまた次回に。(つづきます)
ビバ・ふわ丸!