すごい絵をみた!(げいじゅつとかについて?)

このあいだ、すごい絵を見て、ぐらぐら&ぶわーっとなり(注:涙が)、夜寝ようとすると昼間見た絵がフラッシュバックして眠れんくなってふるふるするという事態に陥り、をを強度の感動はトラウマに似ているものだよ、ということがわかりました。


観たのは、京都造形芸術大学 Galarie Aube で開かれていた(今月30日まで)「マイ・アートフル・ライフ展」。
http://aube.kyoto-art.ac.jp/arc/090707/index.html
造形大って、なんかオサレっぽいのでコワーと思いながらこわごわ潜入したら、やっぱりオサレっぽい学生がいてどきどきしたのですが、観終わって出てきたらそんなことはどうでもよくなってました。


「マイ・アートフル・ライフ展」は、塔本シスコ・丸木スマ・石山朔という三人の画家の展示なのですが、三人の共通点は何かといえば、70歳を過ぎてから花開いたというところ。
それぞれ、人生の前半は、アートと関係なく働いてたり色々苦労してたりして、人生半ばを過ぎてから描きはじめたのだそうです。
正規の美術教育を受けた人たちではないので、アウトサイダーアート、といえるのでしょうか。(石山さんは何かやってたかも?…忘れた。ちなみにこの方はご存命。)
丸木スマ(ねこやうさぎの絵がすごい・二重なのに一重になってる塔もすごい・形は正確ではないのに・そして魚の形だけすごく正確なのもすごい)も石山朔(目が回りそうになった・製作に使ったもの――ふつうならゴミ――が全部保管されていてそれ自体作品になっているのがすごい)もすごかったのですが、わたしは特に、塔本シスコのファンになってしまいました。

70歳から80歳から90歳……と残された時間を惜しむようにみっちりと、色んなものに描かれた彼女の絵は、それ自体みっちりといろんなものが詰まっていて、たとえば「造幣局の桜」という作品には、色んな種類の桜が画面いっぱいに咲き乱れるように描かれた上、その隙間に、桜を見るひとたち、桜の枝にはいるはずのない兎までもがみっちり描かれ、好きなものやアイデアが全部ひとつのキャンバスに詰め込まれているようで、その、日本の日常ではなかなかお目にかかれない眼が醒めるように明るい色彩とも相俟って、描くのたのしー!! という感じが伝わり、ぶわーっとなったのでした。



何年か前、家の掃除をしていたところ、小学生時にナメちゃんと作成した「ハチの会新聞」なるものを発掘し、うちのめされたことがあります。
紙(チラシの裏)の隅々にまで、しょうもないアイデアが空白恐怖的にみっちり溢れており、うわあ凄まじいてんしょんと時間の無駄遣いやなあ、と笑ったのでしたが、この集中力と創作意欲は何処から来ていたのだ! シスコさんもきっとそのように、無心に創作に向かっておられたと想像します。

そして、自分は何か描いたり書いたりするにあたって、この種のてんしょん、ただただたのしー!という感じを取り戻せることはモウないなあ……、と思い、ひどく寂しくなったのでした。


それは一面いいことでもあって、というのは、そういうふうに変わったのは、現実の社会生活の中でそれなりにいいこともあることが分かってからやと思います。といって早い話が、金銭と性の導入です(但し自意識に汚染されたものとしての)。しょちょういわく現実の澱というやつでしょうか。
そこで満足を目指せるならそれはいいことのはずなのですが、しかし一方で、毎晩仕事を終えた後に人知れず自分だけの世界を創っていたヘンリー・ダーガーのような創作態度に、憧憬を抱いてしまうじぶんがいるのでした。


そういうのって羨ましい、と以前或る人にいったところ、羨ましいというのは失礼だと思う、と言われたことがあります。
たしかに、それはそうかもしれません。
ダーガーが聞けば、べつにしたくてしてるんちゃうわ、と言うかもしれん。
もし、もっと経済的に満たされていたり、愛情的に満たされていたりすれば、創作によって自分の世界を創ったりせずに済んだかもしれないわけで、彼の創作は貧しさの中で「やむをえず」なされたものであったかもしれん。
それを、現実的に満たされているやつ(正直わたしが果たしてそれに当たるかは非常に微妙なのだが議論の便宜上そういうことにしておく)が、上から目線で「羨ましいわ」とか抜かしたら、じゃあおまえ代わってくれよ、と言うかもしれん。
でも、言わないかもしれない。


彼の創作が、たとえやむをえずなされたものであったとしても、諸々の澱に汚れない領域を持ってあれだけのひとつの世界を構築できたというのんは、羨むに足るものだと言ってよいと、ヤッパリおもうのでした。
こんなことをごにょごにょ考えてしまうのは、たとえば芸術の神に愛されることを現実の異性に愛されることよりも上位においてしまうような、単為生殖を両性生殖よりも尊いものとしているような、わたしの思考の癖のゆえなのでありましょう。
嗚呼つまらんことです。
このように現実的充足と芸術的充足とを対立軸に置いてしまうところが、そもそもマイ思想的限界であるわけだが、シスコさんはおそらくそうではなく、日常の中で、展示の解説文曰く「呼吸をするように」描いておられたんだろうなア、とも思え、まあ実際呼吸と創作が完全にイコールになることなどないのですがしかし、そこでまた、ふるふる、……と拙文での紹介ではこのふるふる感を上手く伝えられませんので、機会があれば是非実物の絵をご覧になってください、油絵の立体性、塗り重ねられたカラフルな色、印刷で観るより何倍も迫力がありました。



【おまけ】
もし大きなキャンバスを与えられたら描いてみたい絵:
まめ子がいっぱいいる。