先日、ついに「五条別れ」を通りました。
「別れ」の付く地名は京都にいくつかありまして、柊野別れ、百井別れ、など。「追分」と同じく単に道が分かれる地点を指すのですが、子供の頃、この「◯◯別れ」を聞くたびに、なんともいえずもの悲しい気持ちになっていたのでした。
家族で車に乗っていて、父と母が「こっち行ったら五条別れやな」などと何の気なしに話しているのを聞くたびに、頭の中には、荒涼とした分かれ道の風景が浮かびました。雪の吹きすさぶ寒い荒野、立ち枯れた木、有刺鉄線。どういうわけか人々は古来よりそこで数多の別れを交わしてきたのでした。そこはまるで地の果て。うつむきながら妻子とともに歩いてきた男が妻子に手を振っています。もう一緒にいることはできません、子供の成長を見ることもないでしょう。男は独り、振り返りたい思いを殺しながら向かわねばならぬ次の地へと歩き出します。こちらでは、母親に手を引かれた小さな女の子がその手を離されました。まだ年端もゆかぬ娘にこれからのことをよくよく言い含め去ってゆく母親。雪の中残された女の子は、それが今生の別れであることをまだ理解していません。立ち枯れた木の下で抱擁を交わす二人は兄弟でしょうか。兄は東へ、弟は西へ、歩き出してしまえば二度とこの世で会うことはない、ああ、可哀そうなゾケサたちよ! ………とゾケサは余計ですがなにかそういう情景が自動的に脳内で展開され、うわあああん! となっていたのでした………が、このたび初めて実際の五条別れの道しるべを見たのでした。
フツーに街角にあるぅ。
西日がアレなのでやや感傷的に撮れてしまいましたが、頭の中の五条別れのような悲しい要素は特にありませんでした。
「右は三条通 左は五条橋」。そうそう、五条への道の分岐点だから「五条別れ」と呼ぶのですよね。
「ひがしにし 六条大佛 今くま(今熊) きよ水(清水)」ともあります。六条大佛とは当時方広寺にあった大仏のことです。
宝永四年に沢村道範って人が建てたそうです。この沢村道範って人は、当時京都に道しるべをいっぱい建てた人らしいです(ホル大の民にはおなじみ・東一条の道しるべもこの人らしい)。
ネットで検索すると、この道しるべの情報はいろいろ出てくるので詳細はそれらを見ていただくとしまして、私としては、長年頭の中で「なんかひどく悲しい風景」としてあり続けてきた架空の五条別れが、実際はふつうの街角だったのでホッとしたような気の抜けたような気持ちであります。しかし五条別れがかつて交通の要所であったことにかわりはないので、別れのドラマではなくてもいろんな歴史のドラマが繰り広げられてはいたのでしょう。
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ところで自分は京都人ですが、山科区はこれまであまり馴染みのない区でありました。実家は東山の西ですが、山科は家から東山を越えて遠く(滋賀以東)へ行くときに通る街、という認識であり、そんなシチュエーションも「五条別れ」の不安感を高めていたのかもしれません。
最近、山科のことをもっと知りたいなあと思い自転車でうごうごしております。この日は、蹴上から九条山を山科へ抜けたのでした。五月のこのあたりはすごく良い感じであります。
疎水沿いに走り……
みんな大好き蹴上
三条から山科へ抜けるのは五条からお山を越えるよりだいぶラク。しかしこのあたりはひんやりしています。
ちょうどこの後「ブラタモリ」の山科回が放映されまして、「うおお!山科ブームきてる!」と思いました。これはブラタモリでも取り上げられていた牛車の通り道の石……を再現したもの。旧京阪京津線跡でもあります。
ずっと東へ行くと天智天皇陵。五条別れは更に東です。
京都でよく見かける塗られお地蔵もいはりました。