まめ子16周年:濃厚接触と「犬を知った」こと

今年も9月がやってきて、まめ子来訪から16周年を迎えました。本犬がこの世を去り長くなりましたが、この日は永久に世界まめ子デーとして祝い続けたいと思います。

 

さてこの1年半ほど、「濃厚接触」という言葉を見聞きすることが増えましたよね。もちろんコローナのせいですが、この言葉、かつての我が家ではもっぱら「まめ子への度を越した接触」を指す言葉として用いられていました。フロントライン(ノミ・ダニよけの薬)を施した後はよく母が「まめ子への濃厚接触禁止!」という貼り紙を貼っていました。今回初めて正確な「濃厚接触」の使われ方を知り、「ぜんぜん濃厚違うやん」という感想を抱いています。

 

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まめ子への濃厚接触は、ちゃんと濃厚な接触でした。思えば人生の中で、あんなに動物に「濃厚接触」した時期はまめ子のいた10年だけでしょう。犬の質量、犬の質感、独自の形と実質をそなえたものとしての犬を知ることは、まめ子との出会いなしにはなかったでしょう。このときに得た犬の感覚は、犬の生命が失われてもいつまでも自分の中に残っています。人間の記憶はあいまいなもので、その多くは言語に変換されて残るゆえにそれそのものをそのまま記憶するということは不可能かもしれませんが、それでもなお、ふとしたときに、感覚の原版(に近いもの)がフッと戻ってくるのです。

犬がいなくなってから、昨今ますます、触ったときの犬のむちっとした感じや、顔をうずめたときの腹の匂いや、抱き上げるときのふわっとした毛の感触を、独特の、他で得難いものとして、フッと思い出すことが増えました。夢にそうした犬の感覚の切れ端のようなものが現れることもあります(だいたい幸せな気分で目が覚めます)。私は実は基本的に動物が怖いので(子供の頃はずっと犬嫌いでした)、まめ子以前はそんなに動物とベタベタと触れ合ったことはありませんでした(あおむし除く)。下世話な、かつ少し官能的な慣用表現として「男(女)を知る」という表現がありますが、この語法でいうところの、まさに「犬を知った」という感じがします。道ゆく犬を見るだけで、抱き着いたときのもっちりした感じや脇腹のたっぷりとした感じが再生されるようになりました。

そんな犬の感覚を、日々湧き水のように享受できるのは、実に犬飼い時代の特権であったなアと思います。今は特に、よその犬への「濃厚接触」も憚られますものね。

 

 

ところで話変わりますが、先日、『聖なるズー』(濱野ちひろ著、集英社)という本の書評(というか感想というか)を書きました。

https://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/book_review/id107/

「動物性愛」についての本なのですが、一見キワモノ的な本かと思いきやいろんなことを考えさせられる大変良い本でして、そんなことを書きました。この中で、「動物性愛」と「一般的な飼い主の愛」はどれほど違うものなのか、ということを書いたのですが(というと「いやいや…」と思われる人もあるかもしれませんが詳細はよければ書評を読んで下さい)、書きながら、まさにまめ子との、その独特の質量と質感を感じるふれあいを思い出していたのでした。

 

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今年も写真をいくつか。

 

 

「濃厚接触」の例です。こういうとき、まめ子は常に一定の表情でした。

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「濃厚接触」じゃない例。なぜかまめ子様が尻だけくっつけに来てくださったのでした。まめ子から来てくれたので嬉しくて何枚も写真を撮りました。

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まめ子とぶたさんの濃厚接触です。

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