われらの吉田節分祭振り返り(前篇)

ここ何年か、「日ごろ集わない仲間たちと節分に吉田山に登る」のが年一の恒例行事となっておったのですが、今年はさすがに集わない方向となり、淋しい限りです。

毎年この季節になるとぐっと冷え込む左京の夜に、吉田神社本殿に参り、大元宮まで登り、どて焼きと日本酒を買って山の上で脳が凍りそうになるまで飲み続ける、というクレイジーな集いも流行り病には勝てませんでした。福豆授与等は行われているようですが、追儺式や火炉祭、夜店は中止のようですね。

そのようなわけで、その代りとして今年は、ここ何年かの節分祭の写真を振り返ってみたいと思います。

 

 

■ 2006年

 

……といいつついきなり節分祭の写真ではなくきりたんぽの写真です。

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これは何かといいますと、この年、ナメちゃんと「久々に節分祭に行こう!」と勇んで出かけたのですが、日にちを間違え、吉田神社に着くと既に祭りは終わってしまっており、仕方なくそのへんの居酒屋に入り、きりたんぽ(好物)を見つけて注文したのでした。

 

余程きりたんぽに心慰められたのか、延々きりたんぽを撮っています。

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きりたんぽと私。今見ると若くて驚きます。このブログを始めたくらいの頃ですかね。あとナメちゃんが撮る私の写真は、高確率で激しくブレています。

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■ 2007年

「大学の仲間と節分祭に繰り出す」行事の起源はこの頃だったようです。節分祭から帰ってきた者たちが研究室で酔いつぶれている写真がありますが、ひどいのでupできません。

なお夢日記によると、この年の節分、私はとても節分らしい夢を見ていたようです。

 

 

Oさんに案内され、Sと吉田山に上る。吉田神社は祭礼らしく、色とりどりの火がもやもやとたくさん炊かれており、とてもにぎやか。亡くなった人のたま(魂)を供養する祭礼らしい。
ナメちゃんが死んだということになっており、われわれは、ナメちゃんのたまを供養しようとする。そのほかにも、××さんや××さんや去年亡くなったM君のことを思い出し、供養してもらおうとする。しかし、そんなにたくさんの人を、どうやって供養すればいいのだろう? 薄紫のようなピンクのような綿菓子のようなもやーっとしたものが「たま」らしいが、それは誰のたまだということにすればいいのか。
困っていると、Oさんが、「たまになってしまえば分割できない(みんな溶け合う)から誰のたまだということはない」というような説明をしてくれ、じゃあこれでいいんだ、と思う。

 

Oさんというのは、毎年節分祭で酒をおごってくれるまれびとであり、実際に、たまの話や鬼の話をいつも教えてくれる人であるので、半分現実のような夢ではあるのですが、何かふしぎできれいな夢だったことを覚えています。

 

 

■ 2008年

吉田神社の写真はなく、吉田山で買ってきた酒の写真のみが残っております……。

 

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私はほぼ下戸なのですが、吉田神社の日本酒はなんというか清いお味というのかそんなお味がして、好きです。

 

この年のこととしては、「手づくり飴」の屋台を「子づくり飴」と見間違えてしまい、皆に「子づくり飴っていうのがある!」と大声で教えて恥ずかしかった、というどうでもいい思い出があります(Oさんが「民俗学的に祭とはそういうものだから間違っていない」とフォローしてくれた)。また、幼馴染Mが祭一行にレギュラー参加するようになりました。

 

 

■ 2009年

この年から写真がたくさん残っています。デジカメを変えたことと、記録のため左京区界隈の写真を積極的に撮り始めたことがその理由です。

 

 

この年美味かった夜店の食べ物・ホルモンうどん。

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先ほど、「吉田神社本殿に参り大元宮まで登る」と書きましたが、その間に菓祖神社に寄るのがわれわれのコースです。

菓祖神社は、吉田神社末社のひとつでお菓子の神様。京都府菓子卸商業組合の祭神なのだとか。私は毎年「今年も良き菓子が食べられるように」と祈ることとしております。ここにお参りすると毎年、お菓子と豆茶(美味しい、好き!)を貰えるのです。寒い中束の間豆茶でほっこりするのが恒例です。

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この年は後輩にはしまきを2本奢らされました。後輩はさらにこの後自分で1本買ったそうです。

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物騒な屋台

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これも毎年恒例、八つ橋ツリー。吉田神社は聖護院八つ橋の領域なんですな。

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雨が降っていたようです。本殿から降りる坂より見下ろした参道。

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この年は、昼も夜も節分祭に行き、昼飯と晩飯を屋台で賄うなど、節分祭大盛り上がり(自分の中で)の年でした。また、「泥酔したまれびとが深夜に山頂で突然姿を消して戻ってこない」という事件があり、残された者たちで山を降りました。(後日ちゃんと会えました。)

 

 

■ 2010年

 

節分祭では例年、河道屋が年越そばの屋台を出すのですが、毎年食べ損ねていたのです。この年やっと食べることができました。

なぜ毎年食べ損ねていたかというと、山頂近くで深夜近くまで酒を飲んでしまうからなのですが、この年やっと、「酒を早めに切り上げればよい」ということにわれわれは気づいたのでしょう。

 

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しかし私はこのとき、例の日本酒を飲み過ぎて、山を下ったところで嘔吐事件となりました。あまりに美味く、また気分が良かったので、調子に乗って下戸の癖に許容量を超えたのでした。毎年誰かが倒れ誰かが吐く、それがわれらの節分でした。

 

蕎麦屋で撮った写真もフランシス・ベーコンみたいになっており、手元がもうダメだったことが分かります。

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その後、研究室で休んだのですが、誰かが「いろんなものをラップで梱包する」という奇行を始めました。その写真です。酔っていたのは私だけではなかったようです。

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 なんか節分祭の写真というよりは、酔っ払い記録の振り返りみたいになってしまいました。

 

ところで、写真が残っているのはデジカメを入手してからですが、吉田節分祭には幼い頃の思い出もあります。

4、5歳の頃か、両親に連れられたのが最古の記憶だと思います。出がけに、「必要ないから」と普通の靴を履かせようとする親に対し、私は長靴を履いていくと主張して怒られたのです。しかし、京都はよく「通り一本上がると気温が一度下がる」などと言われるように、その日、私の家の付近ではもう溶けていた雪が、それより北の吉田に着くとまだこんもり残っており、「今日はあんたが正解やったな」と言われて得意になったのでした。

当時、まばゆいような夜店がどこまでも並び、普段見ることもないほど大勢の人々が愉しそうに歩いている東一条は、ずいぶんと広大な大通りに見えました。体感としては御池通くらい。成長してNFか何かで京大を訪れたとき、正門前の通りの狭さに「エッ、これがあの東一条!?」と、化かされていた人のような気持ちになりました。

 

 

 

 

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