『かげろふの日記遺文』を読んだ/書くことについての感慨

室生犀星『かげろふの日記遺文』は、高校生のときからずっと読んでみたいと思っていたのですが、やっと今更読んだのでした(よくある)。
道綱母の書いた『蜻蛉日記』は、高校の古文の授業で読んで「やっぱ文学部に進むんや!」と確信したきっかけのひとつであったのでありますが、まあ結局古典文学は専攻せずろくろく勉強しなかったのであまりえらそうなことは言えないのでありますが、道綱母の情念に満ちた、つぶつぶと胸ふたがるような記述は、書いて残すこと、の意味と関連してずっと胸にのこっておりまして、ですが、その道綱母に「病気にかかって赤子まで死んでくれて本当に溜飲が下がったわ」とまでけちょんけちょんに書かれた町の小路の女のことはあまり考えたことがなかったのです。
で、その町の小路の女の立場で書かれた小説があると知って、道綱母にばかり感情を移入して読んでいた私にはなるほどその視点はなかったものであるから、なるほど、読んでみたいなと思っていたのでした。


藤原兼家が一時耽溺してやがてそのもとを去った町の小路の女に、室生犀星は自分の母を重ねて、この作品を書いたのだそうです。
しかし読んでみましたらば、予想していたような、蜻蛉日記のアナザーストーリー的なものとは少し違いました。勿論蜻蛉日記が下敷きにされておりしばしばその記述が引かれてもいるのですが、テーマも文体も最早道綱母のものではない(当り前ですが)。
作中では、道綱母には「紫苑の上」、町の小路の女には「冴野」という名が与えられています。
栄華を生きる男ゆえの空虚に動かされて二人の女の間を行き来する兼家像は、私の中にあった「ちゃらんぽらんで調子のいい男」という兼家像とは少し違いました。
最後には、その男を間に挟んでの、種類の異なる二人の女同士の、夢ともうつつともつかない幻想的対峙が描かれるのです。


わけてもオリジナル蜻蛉日記と異なるのは、おそらく蜻蛉の時代には無かった概念であろう「少女」というテーマをめぐる記述でありました。それを読み、私は、なんで忘れていたのだろう! と嘆じたのでした。
他に本妻のいる兼家を迎え、性愛を、男を待つことを、男が来ない時間を、知ってしまった紫苑の上は述懐します。


「わたくしは彼の方にあのように、夥しいものを上げなくてよかったのに、私はつい、みんなお上げしてしまったのだ。少女というものの多くが常に軽くあしらわれ、身を二つに分けてしまう」
講談社文芸文庫、36頁)




そうでした。なんで忘れていたのであろう。
恋だの愛だの性だのは、多くの「少女」には挫折、あるいは外傷としてしか訪れないこと、何故私はそのことを忘れていたのであろう。
犀星は男であり、あとがきに書いているように対象として女を眺め書く一方で、何故このことを知っていて、何故このように書けるのであろう、と思います。
それはこの作家の「蜜のあはれ」を読んだときにも感じたように思います。ちなみに「蜜のあはれ」をお手本にして書いたのが倉橋由美子の「妖女のように」なのですが、そういえばあんなに私にとって親しい世界であった倉橋的なLとKの世界、つまり、書く女とその分身としての対象K(それゆえにKとLはけっして結婚できない)の世界も、いつしか遠いものになっていたのであった。



*****


と、ここからは室生犀星とも上の本とも関係ない私自身の感慨なのでありますが、ここ一、二年私は、自分の中の「少女」性のようなものが完全に失われてしまった、終わってしまった、と感じ続けておりました。
それは健康的なことでもあり、一方で後ろめたいことでもありました。
「少女」から「おばちゃん」に無事脱皮を果たすことは基本的に悦ばしいことだと思います。かつて矢川澄子は、「少女期以降の人生は少女期の予後である」と言いました。ならば私は(意外にも、)ちゃんと治癒に(なし崩し的に)成功したのだと思っていたのでありました。一方で、私はもう「少女」を搾取する側に回ってしまったのだ、という忸怩たる思いもありました。
人が「おばちゃん」という語で含意するところはいくつかあるでしょうが、私が「おばちゃん」になり得たと感じた点は二点あって、ひとつには、男、あるいは男の性欲(無粋ながら注釈しておきますれば性欲そのものというよりその社会的な在り方)に対する憎しみがすっかり薄らいだことです。もうひとつは(それに関連して)「書く」という行為の自分の中での重要性が低くなったことでした。


私は別に、文章を書くことで生計を立てている者でもなんでもないですし、上手く文章が書けるわけでもないですが、小学校の作文とかつまらんブログとかまた日記のような誰にも見せない文章であっても、書くということをひとつの拠り所でありアイデンティティのように感じてきたのでありました。何故そんなふうになったのかはよく分かりませんが、少女の頃に感じておったのは、自分と世界の間に常に溝があって、文字をつらねることでその溝が埋まってゆく、という感覚でした。
身体制御と話し言葉のままならなさや挙動の非なめらかさが、唯一の如意棒である文字によってリカヴァーできる、という感覚。
が、その感覚がここ一、二年すっかりなくなってしまいまして、以前はよく「どうしようもない絶望的な状況になっても、なんか書けばいいや」と思っていたのがすっかりそんな思いが分からなくなり、なんかもう書くことないな、ふつうにぽかぽかしてたいな、とふやけていたのでした。
吉川氏が『理不尽な進化』を、「犬以外の全てのものを投げ打って」書いていたなどというのを見て、いや私にはそんなことはもうできないな、文章を書くなんてもうできないな、と思っていたのでした。



が、なんかをひとりでうにうにと書くしかしょうがないことというのがやはり存在するのだな、昇華というほどのものでなく排泄ですらなくても、なんかひとりでうにうに書く運命というのがどうやらあるようだな、と最近思ったのでした。運命なんぞというほど大げさなもんでもないですが。文字を知っててよかった、と久々に。
終わったと思った少女期の予後は、やはり不良であったのでした。



私は、これまで二度の去勢があったと感じています。去勢という精神分析的比喩を用いることはもう時代遅れかもしれませんが、感覚としてぴったりなのでこの比喩を用いますれば、二度目の去勢は紫苑の上と同じく他者を待つことを知ったとき、一度目の去勢は自分が「男の子ではないんだ」と知ったときであったと思っています。

以前に橋下徹が「他の国にも慰安婦のような制度はあった」といった内容の発言(シノドスによる全文:http://synodos.jp/politics/3894)によって物議を醸したことがありましたが、先日、人とその話になりました。他の国にもそうした制度はあった、その発言はおそらく正しいし、その通りでありましょう。戦時にはそういった制度が必要であった、それは正しいのでありましょう。だが私はあの発言を聞いたときに、非常に悔しい思いをしたのでした。
その発言には、国が国に何をやったとかやらなかったとかいう問題はあっても、人が人に、何をやってきたかという視点が一切ない。男が自分のために他人(女)の身体を使うことは当然とされていて、その前提への内省もためらいも一切ない。勿論、そんな内省なんぞ政治には要らないものでありましょう。私は、最初に、自分は戦時においても女なのだということを知ったとき、ものすごいショックでした。子供の頃戦争の話で知ったように殺したり殺されたりするだけでなく、強姦されたり使用されたりする側の性で、世界はそういうふうに性差によって分断されていることを知ったことは、非常な外傷的な体験でありましたた。
だがそうやって、自分は女なのだ、と「認識」を迫られるのは少女ばかり、内省するのは少女ばかり、汚れてしまったと感じるのは少女の側ばかり、あねがかつて言った言葉を借りれば「死ぬのはいつもてめえばかり」だ。


と、そうした思いで私は彼の発言を、(事実として正しい正しくないの議論はまた別にして、) そうした内省も葛藤もなしに「他の国にもあった、必要だった」とばかりしゃあしゃあと言って、そんな「正しさ」のうえに恥じずにいられるその特権性の点でけっして許そうと思うことができないのですが、その話をしたとき、「主」「公」である政治の言説に対して、いわば「少女の声」を「副」であり「個」であるような話し方、個人的な悔しさであるような話し方をしてしまっていることに気づいたのでした。まるで、「少女」が下から「政治」様に訴えるような、それは私の話し言葉の限界です。だがそうじゃない、少女の声はけっして、男の言説、政治の言説という「主」に対する「副」であったのでなく、少女の声はそれ自体政治的言説です。政治的言説と同じ地位にのせるべき、と言いたいのでなく、それは本来おまえのしゃあしゃあとした大声と同じだけの音量を本来をもつものだろう? 書くというのはそういうことで、少女の声をそれだけの音量で、しかるべき音量で、提示することだったんだと思い出した。
私は長い間何度も、「少女」だった自分、また内なる少女を裏切るようなことをしたと思います。別に書いてなんになるものでもないけれど、文字の形で残しておけば、五十年後でも会える可能性は生じるのだと思う。「少女」という表現は、いろんな誤解や、いらないロマンチシズムを招くので使いたくなかったけれど、敢えて使いました。



しかしまた、同時に、本当の少女の頃に感じていた「書くこと」とは別の課題も生じてはおり。当時から、書くということは、ぽかぽかしたものやあたたかな和解に亀裂を入れること、ぽかぽかから解離することとして感じられていましたが、じゃあ「少女」が他者と暮らそうとしたとき、どうしたらいいんだろう。ヘテロセクシュアルな成熟(笑)の中に内なるKとの交信の領域=書き言葉の領域を確保する(倉橋メソッド)、という方法以外に何か、あるのか。とか、くだらねえ。ですかな。