他人の相談、あるいは恋の相談天国

昔の私
の相談に乗る。
人の相談に乗るのは難しい。
分かるよ、きみは昔の私だから、私も昔そうだったから、などというのは、今まさに現につらい人の前ではまったくもってまったく無意味だ。むしろ有害ですらあります。
ということを、小川君から学んだ。


別に何も、気の利いたアドヴァイスなどする必要はありません、相談をする人というのは、相談の体を取って、ただ聴いてもらうことを望んでいるのです、だから、何も口を挟まず、ただ耳を傾けるだけで救いになるのです、オーケーオーケー、でもそれは出来ない。
私には、ただ聴くことは非常な感情の労働だ。
よって傷ついたきみを見棄てさせてもらいます。
きみはひどく傷ついており、私は軽く苛立っている、というこの非対称ではあるが、私は他人のひどい傷つきよりも己の軽い苛立ちを優先させていただきます。
なんという特権階級なのか。
何も言わず傾聴するのは、カウンセラーがカウンセラーの倫理に基いてお金をもらってすることだと思う。


金をもらわない限り、私は、人の相談を、自分の自己愛の道具にさせていただきます。







14年前の聖誕祭である、大正時代の。
煉瓦造りのキラキラとした街で、平和のためのベッドイン。
殺しあうより愛しあおう、とそれはその通りですね、しかし。そのとき選ばれなかった者はどこへ行けばよいのか。
選ばれたものは特権階級だ。
電飾を引き抜くこともなく、平成に却った。時給750円(当時)の世界へ。



あなたには愛する者がありましょう、遊ぶ相手もおりましょう、だが私の棲むこちらには、750円の時給より何も無い、というこの非対称!



して、相談された話はよくある話だった。人類史においてよくある話ではあるけれども、個別の個別の者には者には、一度きりの、重大な事件なのです。
そもそも人は皆等しくバカらしくてしょうもないものだ。と思う。
だが、その、本来他の他人と等しくバカらしくてしょうもないものであったはずの者が、ある日を境に自分にとって特別な対象になるからには、そこに何らかの異常なプロセスが働いているのであり、よってそれは病気なのであると思われる。
本来すべての他人は互換可能であって、本来すべての他人は部分対象(=ドリンクバー)であるはずなのに、ある日を境にある人だけがそうでないように感じられ、ある日を境に自分も相手にとってそうであるように望み始めるのは、病気であると思われます。
よって恋はどれも等しく病気であって、ただ、たまたま相互に同量に病的な思いを抱き合えた人たちが幸せそうにしているだけで、たまたまそうでなかった人たちがそうでないだけであるのに、この、たまたまによる非対称は甚大。
おまえたちは身体を愛と交換できる、おれは750円としか交換できない。
それでも「交換できるだけまし」と彼ならば言うのかな。
一度きりの、重大な事件なのです。


ごめんな、そんな甚大は受け止めきれんかった。
良いおっぱいは、押したら出るんだよ(=ドリンクバー)、悪いおっぱいは、不在のドリンクバー。


でももしかすると男は、といって悪ければ貴男は、
もっと簡単なのかもしれへんね。ただ排出口があればよろしいのかもしれへんね。べつに翻弄しようという悪気はなくとも、単に本能みたようなものに従ってうごいただけなんかもしれへんね。
それはええねん、人間てそんなもんや、しょうもないもんや。そこは許してるねん。ていうかうちも、許すとか許さんとか言える人間ちゃうしな。同じことしてるかもしれんしな。
せやけど、もうちょい考えようや。欲求だけで、動くなよ。



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出張先のホテルには大きな姿見があり、自宅にはそのようなものがないので、ひさしぶりに、服を脱いだ自分の全身像を見てみたらば、幼児体型のまま年をとっていて気味が悪かった。